①一九六五年,我十三岁了。我开始在人前饶舌,又在饶舌者面前假装沉默。人到十三岁,自以为对这个世界已相当重要,而世界才刚刚准备原谅你的幼稚——原谅在过去,不是这个理由。因为你确实已经十三岁了。十三岁时发生的事情永远也忘不了。

1965年、私は13歳だった。よく喋るようになったが、饒舌な人の前では寡黙を装った。人は13歳ともなれば一端の気になるが、世間はやっとその稚気を大目に見てくれるようになる年頃だ-----しかしあの頃、容認とはそのような理由からではなかった。なぜならあなたは確かに13歳だったのだから。13歳の時に起こった出来事を人は決して忘れることはない。

②特别留下印象的事,有两件。一件在夏天,另一件也在夏天。第一件:我在夏季的末尾考上了北京市最著名的男子中学。我跟在邮递员的自行车后面飞跑,他手上举着一只白色的信封。我穿过锯木厂的电锯声,一个公共厕所和一大丛美人蕉,在家门口的石影壁前追上了他。我一直感激他,不仅我相信正是他把运气带给了我,而且为了他把快乐带给别人时的快乐。从走进教室的第一天算起,我只在这座学校正式呆了十个月。这个,是他和我都没有想到的。

特に印象に残っている事が二つある。一つは夏の出来事で、もう一つもやはり夏の出来事であった。その一。夏休みの終わりに北京で最も有名な男子中学の試験に合格した。私は郵便配達の自転車を追って走っていた、彼の手に一通の白い封筒があった。私は製材所の電気鋸のうなり音の中を通り抜け、公衆トイレとカンナの大きな茂みも過ぎて、家の門内の目隠し石壁の前で彼に追いついた。私はずっと感謝している。彼が幸運を運んでくれたばかりでなく、人に楽しい時間も運んでくれたからである。しかし教室に第一歩を踏みいれた日から数えて、10ヶ月しかその学校に在籍しなかったとは、彼も私も思いもしないことであった。

③第二件事,发生在小巷转弯处的破屋门前。我走近的时候,一群孩子正挤在那儿,朝里望。里头很暗,要不就是外边太明亮,我好一阵没有看清那是个老人。虽然是夏天,他身上的棉衣也不该破碎得像一只鹅绒枕头,当然没有那样的洁白。一只麻袋中露出一些肮脏的废纸,摊在地上;一只用铁丝弯成的筢子,木柄雪亮,仰面躺着;一只同样雪亮的碗和一只生了锈的锅,郑重地放在木床板上,像是两件文物;“嗡嗡”响着的,是一只苍蝇。在我受到的教育中,一些我并不真正知道的什么,仿佛近了一点;我仿佛知道的另外一些什么,却远了一点。让人在饶舌和沉默之间左右不是。老人抬起头,眼睛晶亮晶亮,刀子似的一闪,孩子们就一哄而散。许多年以后,我才从朋友的书中知道了,只有就要饿死的人,才有那样晶亮的眼睛。我又经过那里的时候,破屋已经拆掉了,我想,老人自然是死了。

その二。入り組んだ路地のあばら家の前。私が近づいて行くと、一群の子供たちが押し合い圧し合い覗き込んでいた。中は暗かった、でなければ外が明るすぎたのであろうが、私には暫くその老人が見えなかった。夏だというのに老人はもう着るには耐えられぬほど襤褸の綿入れを身に付けて、まるで羽毛枕のようであった。もちろん枕のように白くはなかったが。汚い紙くずがはみだした麻袋が一つ地面に広げられ、鉄線を曲げて作った熊手は木柄も黒く光ってひっくり返っていた。同様に黒光りした茶碗一つと錆が浮いた鍋一つも、まるで文化財のようにそっと床に置かれていた。ブンブン音を立てているのは一匹の蠅。私の受けてきた教育では全く知り得なかったものに近づいたように思えた。私は別の世界を覗いたような気がした。遠くからではあったにしろ。人を饒舌にも寡黙にもするそれには困惑させられた。老人が頭を起こした。きらきらと刃のように輝いた目に子ども達はわっと飛び去った。ずっと後に私は友人の本でやっと知ったのだが、餓死寸前の人間だけがあのように輝く瞳を持つという。次にその場所を通りかかった時には、廃屋はすでに壊されていた。老人はあのまま死んだのだ、と思った。

④其实,无论在哪儿,这样的景象都不足为怪,现在也是。我当时很吃惊。可我没有想到我应该而且可能为那老人做点什么,是使我日后更吃惊的事。我只是一哄而散的孩子中间的一个。我只是一名看客。类似的事情我以后看过不少,许多淡忘了。不忘的是那双眼睛,晶亮地长在我的背上,晶亮地看着世界。

その実、何処でもあのような光景は珍しくもなかった、現在においてさえもだ。驚愕はした。しかし、その老人のために何かすべきか或いは出来るか、とは頭に浮ばなかった。後に私はその事に驚いていた。私はどっと散り去った子供たちの一人に過ぎなかったのだ。私は観衆の一人。似たような情景をその後も少なからず見てきたが、多くは忘れてしまった。忘れていないのはあの二つの眼、キラキラとずっと私の背に張り付いて、キラキラと世の中を見詰めている。

⑤一九六五年对中国来说,是重要的一年。她刚刚迈出一道门坎,同时准备迈进另一道门坎,抬着脚。这中间,一片阳光。光亮有时不过是黑暗安装的一道门,推开门就又走了进去。

1965年は中国にとって重要な年であった。ちょうど始めのドアを通って、次のドアを開けようとしているところ、そこに一筋の陽光があった。ただ光は暗黒に設定された道筋にも射す事があるものだ。中国は戸を押し開けて歩き出した。

⑥这一年夏天,国营市场上蕃茄的市价是人民币一分钱一斤。若是暴雨过后,价格就会变成一毛钱一堆。运走这一堆,要使四五个孩子很费些气力。花八元钱,就可以在机关或学校的食堂一个月里吃得很好;每人月平均消费三十元的是富裕的家庭;手表还不是人人都有;时髦的标志是拥有一辆上海生产的“永久一13型”自行车;使我们这些醉心体育运动的男孩子更加醉心的是一双同样由上海生产的“回力牌”白色球鞋,索价十元。我是在这一年夏天才头一次得到这样一双球鞋的,是母亲祝贺我考上四中的礼物。等到它渐渐旧了,我就用白粉把它重新涂白,因为我知道,一斤面粉市价一角八分的当时,不是每个孩子都可以得到这样一双鞋的。中国的农民们从国家手中收到蕃茄的一分钱和面粉的一角八分钱时(当然不这么简单),成熟一只蕃茄也意味着至少四个月的劳作。因此大概可以算出农民们的收入情况。但是,这不是最坏的情况。

その年の夏、国営市場のトマトの値段は500グラム人民幣で1分であった。嵐などの後では、山積み一盛りが1毛となった。これは子供が4,5人でフウフウと運ぶくらいの量である。8元出せば職場や学校の食堂で1ヵ月は充分に食べられた時代だ。毎月の平均出費が30元の裕福な家庭でさえ腕時計は皆が持っている訳ではなかった。最先端は上海製「永久13型」の自転車だった。運動好きな少年たちがもっと夢中になったのはやはり上海製「回力印」の白いサッカー靴で、売り手側が付けた値は10元だった。この年に私は初めて、母から四中合格祝いとして買ってもらった。段々に古くなると白い粉を塗った。小麦粉が500グラム8分した当時、誰でもが買って貰える物ではないと分かっていたからだ。中国の農民は国にトマトは1分、小麦粉は1角8分で買い上げてもらっていた(もちろんそれ程簡単ではないが)、熟したトマトは4ヶ月の労働を意味する。ここから農民の収入の大よそが分かるだろう。しかし、これが最も悪い状況というのではなかった。

⑦不仅因为年龄,也因为其他,我不是一九六O——一九六二年大饥荒的合格回忆者。在饥饿突然露面时(其实它一直跟在背后),城市居民中的重体力劳动者的月粮食定量降低到十四公斤;而孩子们,只有六到九公斤。我记得我曾在市场附近寻找菜根和菜叶,切碎了用红薯面包成菜团子,双手捧着吃,以防它散开。在学校大群的孩子中间,有些渴望在课间休息时,得到五粒黄豆,很香地炒熟了,握在掌心,握出汗来,才咸咸地一粒粒吃掉,腿上却依然浮肿着。我们对童话像对鞭炮一样又爱又怕,因为童话中总是提到糖果。偶然可以吃到面条时,哪怕在同一家庭中也须用小秤将面粉一份份事先秤过,再为每个人单独制作。在大型食品店里被轻易捉住的贼是一具腹部滚圆的尸体。北京各机关派出卡车和枪手,追赶内蒙古草原上的黄羊,把被饥饿打死的黄羊肉血淋淋地分给许多家庭。根据我的经验,这种肉食并不好吃,但在当时,很好吃,非常好吃。我们到底生活在首都,到底偶尔还能吃到黄羊肉。我的一位在美国居住了十二年的朋友回忆当年的情景:她当时躺在河南省的一个村庄里,两眼望着悬在房梁上的一只篮子,里面的几个干馍是一家最后的食物。她后来偶然活了,在父母把她接到北京之后。此后许久,只要听到炊具的碰撞声,她就开始感动地啼哭。就在这个河南省,农民们先是吃净了树皮、草根,甚至一种泥土,然后就在道路、田野和村庄中成群地死去。官方文件中对这件事很少提及,提及时使用的词汇是“非正常死亡”。在不多的几年里,死于此种非正常的人数在两千万到三千万之间。一个相当于澳洲人口总和的人群消失了,但我们却什么也不知道。

私の年齢のせいばかりでなく、その他の理由もあって、私は1960-1962年の大飢饉をよくは覚えていない。飢饉が突如として現れた時(実はずっと背後に付いていたのだが)、都市の住民のうち、重労働者の毎月の食糧配給は14キロに減らせれた。そして子供への配給は僅か6-9キロになった。市場近くで根っこや葉っぱの屑野菜を探して、さつま芋を粉にし野菜を包んで団子にした事があった。こぼさないように両手で捧げ持って食べたものだ。学校の生徒の中には一部、休み時間を待ちに待つ者もいた。貰えた5粒の大豆を、香ばしく煎ってあるのに食べるのを惜しんで握りしめ、汗で塩気がつくほども経ってから、やっと一粒一粒食べる。そんな家の子たちでさえ脚には浮腫みが出ていた。子供たちにとって童話は爆竹のようなものだった。好きだけれど怖い。なぜなら童話の中には決まってキャンデーが出てくるのだから。 たまに饂飩を食べることができたが、たとえ家族でもまず秤で一人分ずつ粉を量って、それから一人ずつ打ったものであった。大きな食料品店では易々と泥棒を捉えてみれば、腹の膨らんだ仏、といった目に遭った。北京の各機関では射撃手を乗せたトラックを出し、内蒙古の草原でヤギ狩りをした。ヤギは飢餓によって撲殺され、すぐさま多くの家庭に配給された。私の経験から言って、こういった肉は決して旨いものではないのだが、当時は美味しいと思った。とても美味しかった。しかし都会に住んでいたからこそ、たまたまヤギの肉が食べられたのだ。12年間アメリカに住んだ友達の当時の想い出はこうである。彼女は河南省の村にいた、その両の目で見上げるのは梁に吊るされた籠、中の乾いた数個のマントウがその家の最後の食料だった。彼女は偶々生き延びて両親のいる北京へ戻れたが、その後長いこと、鍋釜の音を聞くと想いが余って泣けたそうだ。その河南省では農民は先ず木の皮や草の根を食べ尽くし、粘土すら食べ、とうとう道や畑や村落でもバタバタと死んでいったという。政府の文書にはこれ関する記述がほとんどなく、言及する時は「変死」との語句を使用する。たかだか数年間で、この変死者数は2千万人から3千万人となった。オーストラリアの総人口と等しい人間が消え失せたのだ、しかし何も私たちは知らなかった。

⑧为什么?没有说,谁该负责?也没有说。只知道:我们遇到了自然灾害。还有,苏联人的背信弃义。

  自斯大林死后就开始了的中、苏意识形态之战,恶化了国家关系。一九五九年,苏联开始撤退专家,停止了一切援建项目。中国则开始以农产品偿还朝鲜战争借款。据说,这就是造成饥荒的主要原因。事实是,饥荒的部分根源是人为的结果。而同苏联的冲突,仿佛一个举着雨伞在阳光中行走的雪人一样,偶然遇到一场暴雨,不仅可以避开晴日带伞的猜疑,而且可以为自身的融化找到根据。这是一场及时雨。一九五八年全国性的“大跃进”才是六十年代初期大饥荒的起因。

何故だ?と誰も言わない、、誰の責任だ?とも誰も言わない。ただ分かっているのは、自然災害に会ったという事。その上、ソ連の裏切りもあった。 

スターリンが死ぬとすぐ中ソのイデオロギー闘争が始まり、両国の関係は悪化した。1959年のソ連はエキスパートを引き上げて一切の援助プロジェクトを停止した。中国は朝鮮戦争時の借款を農産物を以って返済し始めた。これが飢饉が起こった主な原因だそうだ。しかし本当は、飢饉の原因の一部は人災であった。ソ連と衝突は、晴れの日に傘をさして歩く雪だるまが偶然に暴風雨に遭って、晴天に傘をさす愚かさを隠せたばかりか、自身を融かした要因の転嫁をも可能にしたのであった。グッド・タイミング。1958年の全国的な「大躍進」こそが60年代初期の大飢饉の起因である。

⑨但是,人民却甚少怨言。原因中分量很小的是他们不了解内情,更多的是他们对这个制度还有信心。因为饥荒是农业国家的常规事件,仅在中国近代史上,灾变已经不知发生过多少次了。不但如此,他们还欣赏毛泽东同苏联人的斗争。维护西方马克思主义纯洁性的重担,由数千年维护“华夏正统”的民族来担当,表面上不通,实际上合乎逻辑,都基于同样的道德偏执。古远的帝国旧梦和尚未古远的百年外患所造成的悲哀和仇恨作用,一时间确实产生了毛泽东所说的“精神变物质”的强大力量。他们相信在闭关锁国的条件下,可以依靠精神的力量,“在一张白纸上画下最新最美的图画”。受到伤害的民族自卑感,以自尊的方式被激励起来了。

しかし、人民からの怨みの声はごく僅かだった。内情を理解していなかったというより、人々のこの政府に対する信頼があったということだろう。凶作は農業国では珍しくない、中国の近代史だけでも、天変地異がどれだけ発生したことか。そればかりか、まだ彼らは毛沢東とソ連の論争を素晴らしいことだと思っていたし、西洋のマルクス主義の純粋さを守ろうとしていた。数千年続く「華南の正統」を以ってそれを担おうと。表面上は筋違いに見えるが、実際のロジックは適っていた。基幹は同じ、道徳的偏見である。遥か昔の帝国だった歴史と、未だ遥か昔とはなっていない百年の諸国からの侵略で形成された悲哀と怨恨が作用して、一時は確かに毛沢東が唱えた「精神の物質化」的なエネルギーが生み出された。人民は排外鎖国の状況の元で精神力を頼みに、「白紙に最新最善の図面を描いた」。傷つけられた民族のコンプレックスをバネに自負心を取り戻そうと奮い立ったのであった。
 
⑩自一九五九年起,由一名在战争中被日军打断了一条胳膊的将军指挥,从中国各地汇集来的人群,在东北烈风劲吹的雪原上,建设起一座巨大的油田。他们住在土坯垒成的泥屋中,吃着有限的粗糙食物,依靠军事共产主义的组织方式,人海式的劳动投入,理想与纪律,在刻意不宣的岁月中默默奋斗。一位名叫王进喜的工人,曾在严冬季节跳进深可及胸的泥浆池中用身体搅拌开钻所必须的泥浆,并使他的钻井队保持年钻井世界纪录多年,而被称为“铁人”。他在北国寒风中高唱:“石油工人一声吼,地球也要抖三抖!”满载原油的列车终于从原来无名现名大庆的地方开出,结束了中国进口原油的历史,消息传出,民心大振。与此同时,地处中国华北与西北交界的群山腹地之中,一名叫做陈永贵的农民,依靠同样的组织方式和精神因素,在周围的山地上用铁器时代沿用至今的锄头,建造起比他们脸上的皱纹整齐得多的梯田,其规模使人联想起长城的修建,并在水土保持极其困难的半高原上当年获得谷物丰收。炊烟升起,宣布一个名为大寨的村社的兴起,并为中国北方多山诸省的农业施了洗礼。陈永贵这个名字,对于常年处于半温饱状态的中国农民来说,无疑号召力强大。一九六二年,因“麦克马洪线”而纷争不休的中、印边界爆发战事,来自四川省的军队越过西藏高原,一举击溃了印度陆军。同年,解放军又在东南沿海歼灭了蒋介石派遣的武装分队,并发出誓言:“我们一定要解放台湾!”一九六四年,苏共中央第一书记赫鲁晓夫先生下台的同时,中国在西北地区引爆了第一个核装置。大体与人民共和国一同生长的少年们第一次看到了沿街散发的号外和胜过节日的狂热人群。所有这些成功,都是通过人海式的群众运动实现的;“放手发动群众,大搞群众运动”这类口号更多地出现在宣传中。在林彪元帅推动下,群众运动的胜利被归功于伟大领袖。毛泽东开始被称为“当代最伟大的马克思主义者”,他的思想不但是“顶峰”,而且五百年才出现一次。如同中国的古语:“五百年必有王者兴。”中国的经济也确实开始稳定,人们至今对一九六四——一九六五年之间物品的丰富和低廉的物价记忆犹新。一九六五年纪录国庆实况的影片中,在毛泽东出现之前,有一个由广场摇到天安门城墙的长镜头,在容纳了一百万人的空间中,竟可以清晰地听到城楼上八面红旗飘舞的声音。接着,《东方红》就在礼炮声中响彻了广场。入夜,手擎红旗的人群在静默中踏出大军行进般的步伐,通过原西方国家使馆所在地——西交民巷,涌向天安门广场,不久,天空中升起了焰火礼花。

1959年、日本との戦争で片腕を失った将軍の指揮のもと、中国各地から集まった人々が東北の烈風吹きすさぶ雪原に巨大な油田を建設した。彼らはレンガを積み上げ泥で固めた家屋に住み、不十分で粗末な食事を取りながら、軍事共産主義に依る組織方式の人海作戦労働力として投入されたのだ。理想と規律をもって、意図的に知らされない歳月を黙々と奮闘した。王進喜という労働者は、かって厳冬の中、胸まで汚泥に浸かり手で泥を掘り、その年、彼の掘削隊が成した油田の深さは長いあいだ世界記録として残った。因って「鉄人」と称されている。彼は北の寒風のなか高らかに歌い上げた、「石油掘りが一吼えすれば、世界は三度震える」。 石油を満載した列車がかつては無名であった大慶から、遂に出発したのだ。石油輸入の歴史は終わった、ニュースは伝わり人々の心は高揚した。この同じ年、中国華北と西北に境を接する山脈の奥地で、陳永貴という名の農民が、同様の組織方式と精神的要素で、周囲の山を鉄器時代から今に至るまで使われている鋤を以って、彼らの顔の皺より整った棚田を作りあげた。その規模は万里の長城を思わせ、水の確保も極めて困難な半高原で、実りも豊かに穀物を収穫した。この煮炊きの煙上る一農村、大寨村の名が全国にとどろき、中国北方山岳地帯の多くの省がその影響を受けた。陳永貴の名に、いつも半ば腹を空かせて過ごす農民たちが強力に引きつけられたのは疑う余地もない。1962年、「マクマハン・ライン」を回る紛争が続く中、インド境界近くでの衝突が勃発した。四川省から軍隊がチベット高原を超えて攻め入り、インド軍を一挙に壊滅させた。同年、解放軍は東南沿岸でも蒋介石の武装部隊をせん滅し、「必ずや台湾を解放する!」の誓言を発した。1964年、ソ連中央第一書記の赫鲁晓氏が失脚すると同時に、中国は西北地区で第一の爆弾装置を点火させた。およそ人民共和国と時を同じく成長してきた少年たちは、道で配られる号外と、戦勝を祝う熱狂的な人々を始めて見たのであった。これらの成功はすべて人海作戦で群衆を動員して実現させたものであった。「大衆自らが立ちあがれ、大衆の行動に依ること大」のスローガンが更に多く喧伝された。林彪元帥の推進の元、大衆運動の勝利は偉大なリーダーの手柄となった。毛沢東は「当代最も偉大なマルクス主義者」と称されるようになり、彼の思想は「最高峰」であるばかりか500年に一度やっと出現するものとされた。まるで中国古典の「500年の内には必ずや王の勃興あり」であった。経済も確実に安定し始め、人々の1964-65年にかけての物の豊富さと低価格はいまだ記憶に新しい。1965年の国慶祭の記録映画の中に、毛沢東の出演前、広場から天安門城壁にかけての広角映像がある。100万人を収容できる広場の城門上、八面紅旗がはためく音を明瞭に聞く事ができる。続いて「東方紅」が祝砲のなか響き渡る。夜になり、紅旗を掲げた群衆は静かに足を踏み出し大軍の行進の如くの歩調で、以前の西洋公使館所在地---西交民街を通り、続々と天安門広場に向かった。間もなく空には祝いの花火が打ち上げられた。

⑪这是盛世景象。

  用毛泽东本人的话来说:“中国人民从来没有像今天这样精神振奋,意气风发,斗志昂扬。”一九六五年,一首早就代替了五十年代流行的“好一朵茉莉花”的革命歌曲,直接引用了毛泽东的原话:“我们走在大路上,意气风发斗志昂扬,毛主席领导革命的队伍,披荆斩棘奔向前方。”

繁栄時代の光景である。
 
毛沢東本人の言葉を用いれば、「中国の国民に今迄このような精神発奮、意気発揚、闘志高揚を見たことはない。」1965年、50年代に流行した「美しい茉莉花」に早くも取って代わった革命歌曲は、毛沢東の言葉をそのままに歌った。「我らは進む、意気高く闘志を燃やし、毛主席率いる革命部隊、荊を纏い棘を斬ち前進する」
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by dangao41 | 2011-12-25 12:02 | ??歌 | Comments(3)

①一九五二年夏天,我出生在一个电影工作者家庭。我的父母一个是电影导演;一个先在国家电影局工作,以后改做了电影剧本的编辑。抗日战争以后,他们都曾是南京国立戏剧专科学校的学生,父亲又做了教师。他们曾参加反对国民党政府的学生运动,名字列在报纸的通缉令上,于是不得不离开,就到华北参加了革命,中间有一些艰难。一九四九年十月一日毛泽东在天安门城楼上宣布建国时,他们是广场上几十万人中间的两个。我的母亲出身于一个原来富裕的家庭,家里在日军进攻时破产,但她仍有机会在一所美国教会学校念书。一九五O年她回到南京的家中,她的父母却已迁到台湾,连同她的六个兄弟姐妹。她是这个家庭留在大陆的惟一一人。其后的三十九年直到去世,她再也没有机会见到她的父母。在同父母告别时,她二十一岁,天然地向往一个新社会。母亲这样的故事,在中国千千万万,我就是这样的母亲生下的千千万万孩子中的一个。

1952年の夏、私は映画製作に従事する家庭に生まれた。両親は一人は映画監督、もう一人は国立映画局で働いていたが、後に映画脚本の編集者に変わった。抗日戦争以後、両親は南京国立演劇専科学校で学び、父は教師もしていた。二人は反国民党の学生運動に参加していが、指名手配者として新聞に名前が載った。やむなく土地を離れて華北へ行き革命に参加した。苦しい経験であった。1949年10月1日毛沢東が天安門で建国の宣言した時、両親は広場の数十万人の中の二人であった。母の実家は裕福であったが、日本軍の侵攻時に破産した。それでもアメリカ系教会学校で学ぶ事ができた。1950年に母が南京の家に帰った時には、母の両親は台湾へ移住していた。6人の兄弟姉妹も一緒に行ってしまった。母は家族の中で大陸に残った唯ひとりであったのだ。その後の39年間、この世を去るまで母が両親に会う機会はなかった。両親と別れた時の母は21歳、なるほど新社会への憧憬があったのであろう。母のような話は中国に千も万もあった。私はそのような母親の元に生まれた千人万人もの子供たちの一人である。

②据说,我生下来就惯用哭声表达一切。彻夜啼哭常常使母亲无法安睡,是她日后的病因之一。所以长成以后我痛恨一切啼哭不休的电影,算是一点自我反省和否定。那一年,是龙年。

私は生まれると泣声で一切の意思表示をしたという。夜通し泣くので母が安眠できるはずもなく、これが後に母が病を得た一因であろう。だから、成長して後、私は涙が止まらない映画の一切に憤りを感じてきた。この一点をどうやら私は反省し自己を否定しているようだ。この年、辰である。

③我出生前不久,北京召开“亚洲、太平洋地区和平大会”,会标就是毕加索的鸽子。于是父母就给我起了名字叫做“皑鸽”,“皑”就是洁白。父亲名字中也有这个字。他们期待的本来是个女儿,并且准备好了“皑燕”的名字——各从他们的名中取出一字。父亲的名字是“襟怀洁白”的意思,母亲是燕,而且飞驰。当然,这都不是他们父母给的,原名在参加革命时为躲过通缉,改了。“皑燕”这个名字后来给了我的妹妹。我成人以后,却突然听到父亲唤了母亲原来的名字,母亲应了,却两个都无话。那时他们都有些老了。我十三岁时,已经长到一点八米,觉得自己同一只白色的鸽子之间已甚少共同之处,就改掉了这个名字,用了现在的名字在中学注册。我改名,父母没说什么。母亲去世以后,我在美国接到朋友来信,提到,在她弥留之际,喃喃自语:鸽子飞走了,鸽子飞走了我这才明白,世上总有些什么,是不变的。这一年,也是龙年(一九八八年),我不在她身边。

私が生まれる少し前のこと、北京は「アジア・太平洋地区平和大会」を召集した。大会のシンボル・マークはピカソの鳩(鸽)であった。そこで両親は私を「皑鸽」と名付けた。「皑」は白。父の名前にもこの漢字がある。もともと両親は女の子が欲しかったので「皑燕」という名を考えていた。-----自分たちの名から一字づつ取ったのだ。父の名前は「純白な心」の意味であり、母は燕、更に疾走の意味。もちろん、親から貰った名前ではない、革命軍に参加したとき指名手配を逃れるために、改名した。「皑燕」という名は後に妹が貰った。私は成人してから思いがけなくも、父が母を本来の名で呼んだのを聞いた。母は返事をし、二人ともその事に関して何も言わなかった。当時、二人共に少し老いていた。私は13歳にはもう180センチもあって、自分と白鳩には共通点が殆ど無いと思ったので改名し、現在の名前を中学の手続きの時に使った。名を変えた事に対して、両親は何も言わなかった。母が亡くなり、私はアメリカで友からの手紙を受け取った。母は臨終の際に独り言ちたそうな、鳩は飛んで行ってしまった、鳩が飛んでいって、やっと分かったわ。世の中にはあるのよ、変わらないものが。この年、やはり辰(1988年)、私は母の傍にいなかった。

④我爱北京,不光为了她是我的出生地。在我儿时,北京没有那么多人,没有那么多车辆。更容易看到的是四个轮的小车,竹子做的,里头坐着咿咿呀呀的娃娃,后头推车的是一样咿咿呀呀的老太太。临街的学校书声朗朗,忽而又安静了。老人们坐在中药铺前的台阶上晒太阳,手里捏着两个核桃,转着,虚着眼望着天上飞远了的鸽群,哨音像是云的回声,淡淡的。热闹的地方是庙会。我还记得怎样欠着屁股坐在拉“洋片”的老式镜箱前,盯看一张张画面闪过,不敢眨眼,画面有山水、人物、神话中的故事。拉“洋片”的人一边摇着镜箱上的手柄,一边“嘭嘭”地敲着一面小鼓,被敲乱了心的孩子就交出最后一分钱——更不用说庙会中的玩意儿和吃食了。

私は北京が好きだ、出身地だからというだけではない。私が子供の頃、北京はこんなに人が多くなかった、こんなに車が多くなかった。よく見かけたのは四輪の小さな車、竹で出来ていた。中には「ああうう」言う赤ん坊、それを押すのは同じように「ああうう」言う老夫人。通りに面した学校からは朗々と本を読む声、せわしくもあり穏やかでもあった。年寄りは漢方薬店の前の石段に座って日向ぼっこ、手には胡桃を2個握って回しながら、ぼんやりと遠くの空を飛ぶ鳩の群れを見ていた。さえずりは雲のこだまの様に微かだった。賑やかなのは廟の市。どのようにお尻を伸ばして旧式「幻灯」箱の前に座わり、画面の一枚一枚の閃きに目を凝らし見つめたか、まだ覚えている。瞬きすらせず、風景を、人物を、昔のお話を。「幻灯」の小父さんは箱の上のハンドルを動かしながら「ぺンぺン」と小さな鼓を打つ。その響きにすっかり気持ちを高ぶらせた子供は最後の1分玉を差しだした----言うまでもなく屋台でのおもちゃやおやつ用の小遣いを。

⑤春天,挑着大箩卖小油鸡的汉子走进胡同,不用吆喝就围了一群孩子,托起一只在手上,指指才吐绿的柳枝说:嚯,赛柳絮。孩子们毛茸茸地托着,回家放在鞋盒子里,撒上小米,坐着看,夜深了都不忍睡去。卖小金鱼的担子上,一头是木桶,一头是玻璃缸,圆的,要哪条就捞哪条,注进净水,还有一缕碧绿的水草。一缕碧绿的水草。 槐花落尽的时候,卖花的老汉用丝线把晚香玉一串地穿了,挂在好动的小姑娘头上,一跑,小胡同里就香气弥漫了。夜里,甚至冬天,也能听见卖小吃的吆喝声,推开古旧的院门,看见一盏风灯和一个身影,热气虚虚地晕了灯火,身影悠悠地唱着,悠悠地远了,夜就踏实下来。我躺在床上,闭着眼听,觉出被子的暖和安全。

春になると大きな竹かごを担いだひよこ売りがやって来る。呼び込みをするまでもなく子供たちに取り囲まれると、一羽片手に乗せて、芽吹いたばかりの柳を指差して言う。ほらっ、柳絮よりふわふわだよ。子供たちはふわふわと手に乗せて持って帰り、靴箱に入れて粟を与え、座りこんで見守る。夜になっても寝るどころではなかった。金魚売りは一方に木桶、一方にガラス鉢を担いでくる。丸いガラス鉢に、これが欲しいといえばそれを掬って、きれいな水と青々とした水草も入れてくれる。エンジュの花が散る頃、花売りの小父さんは月下香を絹糸で連ねて冠を作り、元気な女の子に被せてやる。駆けまわれば、そこら一面によい香りが広がる。夜には、冬でさえ点心売りの呼び声が聞こえた。古めかしい門を押し開ければ、灯と人影が一つ。明々と眩しい灯のもと、人影は悠々と歌いなから、悠々と遠ざかっていく。夜もすっかり更けた。私はベッドに横たわり、目を閉じて聞いていた。布団にくるまれて暖かく何の不安もなく。

⑥那时北京,仿佛护城河里故宫角楼的倒影,梦一样安详着,小风吹过,晃动了,却不破碎。它的古松和早梅,庭院和街道,都显出古老和平,而且骄傲。

当時の北京は掘に映った故宮のやぐらのようであった。幻のように静かに、軽く風に吹かれて揺れ動くが、崩れはしない。老い松や早咲きの梅も、広場や街路も、みな歴史ある穏やかさを醸し、しかも矜持があった。

⑦我的童年分给了两个幼儿园。那时的孩子大多住在幼儿园里,因为父母忙。第一个是一座四合院,有高大的门楼和小小的石狮子。园长是个严厉的妇女,可只要看见孩子,又笑成一尊佛。记得我们住在北房,一有太阳,阳光就好。后面高高伸出一个平台,有栏杆围着,就在上面游戏玩耍。春日最爱的是养蚕,有时一上午地趴在平台上,看着它们“沙沙”地吃掉一张张漂亮的桑叶,又换上新的。时候一到,蚕箩里一夜之间就寂寞了。早上,我们举着亮晶晶的蚕茧大声问阿姨:蚕宝宝哪儿去了?然后就一二十个地一齐放声大哭。阿姨张开手,眼睛湿湿地笑,不知说什么好。分瓜果的时候,大家就坐成一圈,你一个我一个,白梨、石榴和樱桃,多出来的就分给最小的。夏日,午睡是在院子里的凉棚底下,太阳透过棚顶,在地下洒出许多光斑,风一吹就跑来跑去,睡不着的时候就伸出手,想在空中抓住它们,做个朋友。有一次,我们在游泳池呆得太久,回来的路上遇上了大雨,我们一边叫一边跑,阿姨暂时地做了牧鸭人。然后,在天渐渐黑下来的时候,我们坐在小小的餐室里,一边吃豆沙馅的包子,一边听雷,雷不响的时候就把包子放在嘴边,激动地等待。北京四合院的雨夜,雨点和瓦在房脊上热烈地欢叙,之后又静下来,水珠的滴落声像是在试一张古琴。这时醒来,就能看见值夜阿姨瘦小的背影,浅浅的灯光底下摊开了一本书。我当然不知道,在我做着童年梦的时候,已经有五十五万“右派”分子被逼进了风雨之中,在未来二十二年中苍老或死去。他们的孩子可能就躺在我的身边,不知不觉地受了伤。我不在他们之中, 出于偶然。

私は二カ所の幼稚園に通った。当時子供たちの多くは幼稚園で生活していた、両親は忙しいからだ。最初の幼稚園は四合院で大きな門楼に小さな狛犬がいた。園長は厳格な女性だったが、子供を見ればにこにこと仏様のようになった。私たちの住まいは北棟で、昼間は日あたりが良かった。後ろ側高くの屋上は柵で囲まれ、遊び場となっていた。春、一番の楽しみはお蚕さん。時には午前中ずっと腹這いで蚕が「シャーシャー」ときれいな一枚の桑の葉を食べるのを見ていた。食べ終わるとまた新しい葉をあげた。時が来て、蚕は幻のごとく一夜の内に静まり返ってしまった。朝になって、私たちはきらきらした繭を手に先生に尋ねた。お蚕さんはどこに行ってしまったの?その後で十数人の子供たちは一斉に大声で泣いた。先生は手を広げ眼を潤ませて笑ったが、何と答えればよいのか分からなかった。果物を食べる時はみんなで車座になって平等に一つづつ、梨にザクロにサクランボ、たくさんあっても分ければほんの少しになってしまった。夏、昼寝は庭の日よけの下だった。太陽は隙間から射し込み地面に光の斑点を作り出し、風が吹くと逃げ回った。眠れない時には手を伸ばし、浮いている光を捉まえて友達にしようとした。一度、プール長いこと遊んだあと、帰り道で大雨に出会った。私たちはキャーキャー言いながら走り回り、先生は暫くはアヒルの番人となった。その後、空が段々暗くなって、私たちが小さな食堂で餡饅を食べている時に雷の音を聞いた。雷鳴の響きが消えた時、私たちは口に饅頭をくわえたまま固まっていた。北京の四合院に夜、雨が降ると雨粒はまず瓦に熱烈に歓迎された後、静かになり、雨垂れはまるで古琴の音色のように滴った。夜に目を覚ますと、先生の痩せた小さな背中と淡い灯りの元に開かれた本が見えた。もちろん私は知らなかったが、私が子供時代の夢を結んでいたこの時代、既に五十五万の「右派」分子は風雨の中に追いやられて、続く二十二年間の内に老いるか死ぬかしていくのである。彼らの子供たちも私の傍で寝ていたのかも知れないし、知らず覚えずに傷ついていたのかも知れない。私がその子供たちでなかったのは、偶然にすぎない。

⑧麻雀被宣布为敌人,它就不再是一只鸟。它的存在即是罪恶,为了消灭罪恶就必须消灭它。而在我还弱小时已不能怜悯弱小,实在能对我日后的强壮指望些什么呢?

雀は敵だと宣言されると、もはや一羽の鳥ではなくなった。雀の存在自体が罪悪となった。罪悪を撲滅するために雀を撲滅せねばならない。私は自分がまだ弱く小さい時すでに、弱く小さい他者を可哀そうに思う事ができなかった。そのことが後年の私の強健指向に些かは影響しているのであろうか?

⑨第二个幼儿园也是四合院,只是没有门楼和石狮子。门与墙一般高,漆成红色。最让我惊喜的是这里居然有个小小的动物园,里面却只有两样动物:白兔和鸭子,也是白的。我们喜欢在临睡前探看它们,尤其是停电的夜晚(那时常常停电,也许是已经“大跃进”了的缘故)。手电筒的光亮里是几对宝石一样的眼睛,自然是红的,于是大家“呀”地一声赞叹,都不说话了。鸭子不然,一见光亮就聒噪起来,这抗议直到我们匆匆逃走才停下。找不到手电筒的时候,就由阿姨领着,一人点起一根蜡烛,穿过不矮的松墙,踽踽地去又踽踽地回来,有谁不小心遇见了鬼突然大叫一声,大家就也叫了,兴奋地奔逃。把鸭和兔放在一起,是谁的主意?长了羽毛只会聒噪不会飞的;长了一双看什么都是红色的眼睛却无法开口的,我以后明白了,不仅是兔和鸭。

二つ目の幼稚園も四合院で、ただ冠木門と狛犬がないだけであった。門と囲いは普通の高さで紅漆だった。私を一番喜ばせたのは、なんと小さな動物園があった事だった。中にいたのは二種の動物だけ。白ウサギとアヒルで、白かった。みんな寝る前に彼らを見に行くのが好きだった。別けても停電の夜に(当時はしょっちゅう停電があった。多分「大躍進」のせいであろう)。懐中電灯の明りの中のいく対かの目は勿論赤かった。みんなは「わぁ」と感嘆し、言葉もなかった。がアヒルの方は、明るい光を見るや騒然となり、その抗議は私たちが慌てて逃げ去るまで続いた。懐中電灯が見つからないときは、先生に付いてきてもらい、一人がロウソクを手に、低くはない松囲いを抜けて、とぼとぼと行って又とぼとぼと戻ってくる。臆病者が鬼だと突然叫んだりすると、みなも叫び慌てふためいて逃げた。アヒルとウサギは一緒に飼うと、誰が決めたのだろうか?羽が生えそろってもただ騒ぐだけで飛べない。なんでも赤く見える目を持ち、しかも口をきくすべもない。私は後に理解したのだが、それはウサギとアヒルに限った事ではなかった。
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by dangao41 | 2011-12-25 12:00 | ??歌 | Comments(2)

少年凯歌 第1章 天国 3

①并不是所有的动物都可以享受住在动物园的礼遇。一九五八年,我站在幼儿园的滑梯上,手中挥舞一根系了红布条的竹竿。北京的天空中有无数这样的竹竿挥舞,配合着从铜锣直到破脸盆的敲击声。成群受惊的麻雀降落是死,不降落也是死,于是纷纷跌落尘埃,还活着就被因得胜而快乐的人群缚住翅膀,慢慢死去。终于出现了载重四吨的卡车装满了死麻雀,在街上游行的“盛况”。这一年,老鼠、麻雀、蚊子和臭虫被政府宣布为“四害”。可是能飞的并不只是麻雀,所以我弄不清在幼儿园葡萄架下看到的是一只什么鸟。它在我和一个小姑娘的注视下抽动着翅膀。“麻雀。”我说。“它还活着呢。”她说。“麻雀。害虫。”——我还弄不清虫和鸟的区别。小姑娘点点头,她知道我对,但还是在那只鸟死了之后把它浅浅地埋葬了,上面还盖了一张葡萄叶,为了第二天还能找到它。第二天,葡萄叶落了满地;又过了一天,葡萄叶都被风吹走了从那以后,我们仍然唱着那首已经没有了意义的儿歌:“小鸟在前面带路,风儿吹着我们,我们像春天一样,来到花园里,来到草地上……”北京的天空寂寞着。有的只是养在笼子里的黄鹂,为了使人快乐而歌唱。在“大跃进”过去以后许久,我的朋友们仍然不断用气枪射击所有的鸟,我的朋友们用湿的泥巴糊住死的麻雀,扔进火堆,慢慢等待烤熟的身体。到了一九六六年,被扔进火堆的就不仅是死去的麻雀。

全ての動物が動物園でのような礼遇を受けるわけではない。1958年、私は赤い布を付けた竹竿を振り回しながら、幼稚園の滑り台に立っていた。北京の空には無数のこのような竹竿がはためき、それと共にドラから果ては穴の開いた洗面器を叩く音が響き渡った。驚いた大量の雀が落ちて死んだし、落ちなくてもやはり死んだ。次々と埃にまみれ、まだ生きていても、勝ち誇り楽しげな人々に羽を縛られて、ゆっくりと死んでいった。ついには4トントラックに満載された雀の死骸が通りをパレードする「盛況」となった。この年、鼠、雀、蚊、南京虫は政府の発布により「四害」とされた。しかし飛ぶのは雀だけではない。それで私は幼稚園の葡萄棚の下で見かけた鳥が何かよく分からなかった。それは私と女の子の注視のもと羽根を動かした。「雀だ。」私は言った。「まだ生きているわ。」と女の子は言った。「雀。害虫。」----私は鳥と虫の区別をまだちゃんとできなかったのだ。女の子はうなずき、同意を示した。しかしそれでも、その鳥が死ぬと小さな穴を掘って埋めてやった。葡萄の葉一枚を上に置いて、次の日に場所が分かるようにした。翌日、一面に葡萄の葉が散っていた。翌々日、葡萄の葉は全部風に飛ばされてしまった。それから後も、私たちは相変らずあの何の意味もない歌を歌っていた。「小鸟在前面带路,风儿吹着我们,我们像春天一样,来到花园里,来到草地上……」北京の空は寂しい。いるのは籠に飼われた鶯だけ、人を楽しませるためにさえずる。「大躍進」が過ぎても暫くは、私の友人たちはいつも空気銃であらゆる鳥を撃っていた、私の友人たちは泥を塗りつけて死なせた雀を火に投げ入れゆっくりと暖をとった。1966年になると、火にくべられるのは死んだ雀だけではなくなった。

②麻雀被宣布为敌人,它就不再是一只鸟。它的存在即是罪恶,为了消灭罪恶就必须消灭它。而在我还弱小时已不能怜悯弱小,实在能对我日后的强壮指望些什么呢?

雀は敵だと宣言されると、もはや一羽の鳥ではなくなった。雀の存在自体が罪悪となった。罪悪を撲滅するために雀を撲滅せねばならない。私は自分がまだ弱く小さい時すでに、弱く小さい他者を可哀そうに思う事ができなかった。

③差不多三十年以后,我偶然路过这所幼儿园,门上的红漆已经剥落,也许早就剥落过多少次了,兔和鸭自然也不在了。而且,幼儿园就要拆掉了。“一定要拆吗?”我问。回答是一定。这里要建一座很高的楼,容纳更多的孩子。我高兴至少这里还是一座幼儿园,又为今天的孩子们惋惜,他们再也看不到夜里的红眼睛。即使还能,他们愿不愿看,我没有把握。

30年ほど後に、私は偶然この幼稚園の前を通った。門の紅漆はすでにはげ落ちていた。とっくに何回もはげ落ちていたのだろう。ウサギとアヒルも勿論いない。しかも、幼稚園もじきに壊されるという。「壊さなくてはならないのか?」私は自問し、ならないのだ、と自答した。大きな建物を作ればもっとたくさんの子供を受け入れられる。私はここがやはりまだ幼稚園であることは嬉しかったが、今の子供たちを可哀そうに思った。もう彼らは夜に赤い目を見ることはできない。よしんば出来たとしても、見たがるかどうかは私には分からない。

④我家住在离幼儿园不远的一条胡同里。院子很大,除了门楼、影壁,还有拴马环。前清的时候,这是一座王府,后来残破了。我家住在西跨院,有围墙、走廊、两棵大槐树和一道垂花门。因为住在东厢房,夏天黄昏就很热。我和妹妹就在走廊前的空地上种些瓜豆和淡紫的牵牛花,夕照时满屋都是花影。我的童年,更亲近的是母亲。父亲总是忙,难得见到。我觉得他很严厉,也记不得他年轻时的样子。他去外地拍电影我总是很高兴,临走他拍拍我的头顶,说一句“好好念书”,我就点点头。他有时写信来,我就回一封,说一切都好。对父亲的了解是在“文化大革命”开始以后。从小学起,母亲就陆陆续续教我念些诗,她穿着一身淡果绿的绸睡衣,靠在院里的一张藤椅上,手里握着一卷《千家诗》。太阳出来,就念:“清晨入古寺,初日照高林。曲径通幽处,禅房花木深。”暮春了,则是:“双双瓦雀行书案,点点杨花入砚池。”逢到夜间,就会是:“有约不来过夜半,闲敲棋子落灯花。”这样的功课一直持续到我可以几百行地背诵排律。母亲只要我体会,很少作意义之类的讲解,所以至今不忘。这些图画了的诗歌不能不对我日后的电影有了影响。

私の家は幼稚園からほど近い胡同にあった。敷地は広く、大門の内に目隠し壁があり、馬の繋ぎ環もあった。清の時代は貴族の邸宅であったが、今では傷んでいた。家は西棟で囲い壁と回廊と大きなエンジュの木が二本と飾り屋根の次門があった。東棟に住むと、夏は西日でとても暑い。私と妹は回廊前の空き地に瓜豆と朝顔を植えたので、夕陽はどの部屋も花影で遮られた。子供時代の私は母親っ子だった。いつも忙しい父親とはめったに顔を合せなかった。父は厳格だと思っていたし、若かった父の様子も記憶にない。父が外地に撮影で出かけると、とても嬉しかった。出がけに父は私の頭を軽くたたいて「よく勉強しろよ」と言い、私は頷く。父が手紙を寄こすと、私はみんな元気です、と返事を書いた。父を理解したのは「文化大革命」が始まってからだった。小学校に上がるとすぐに母は私に次々と詩の朗読をさせた。薄緑色の絹のパジャマで庭の籐椅子に座って、手には「千家詩」を持っていた。日が出ると「清晨入古寺,初日照高林。曲径通幽处,禅房花木深。」と読み、春の終わりには決まって「双双瓦雀行书案,点点杨花入砚池。」を、夜になればすなわち「有约不来过夜半,闲敲棋子落灯花。」であった。

⑤我小时候贪读,读我得到的一切书。最得意的是星期六下午,学校不上课,就钻在房间里,翻看家中的书籍。如果是阴天就最好。看到精彩处就高兴到无可奈何;之后,呆想。我虽读过一些武侠小说,可是为了其他男孩子不可抗拒的目光而头一次爬上房顶时,我就断绝了做剑侠的念头。

子供のころ私は貪るように本を読んだ。手に入った一切の本を読んだ。最も満ち足りたのは土曜日の午後、学校から帰ると部屋にこもり家じゅうの本をめくった。曇り日ならまことに良かった。精彩を放つページを読めばもう嬉しくてどうしようもなく、その後、うっとりと空想に耽った。任侠小説も少しは読んだが、友達の手前、抗えなくて始めて屋根に上った時に、剣客になる考えは捨て去った。

⑥像许多人一样,留给我童年最深印象的,是我们的保姆,我们叫她奶奶的。奶奶姓沈,满族人。脸和人中都有些长,很像御像上的皇帝——他们的祖先。她有过一次婚姻,不好,就离开男人单过,天足,不识字。因为不曾生育过,又终日劳作,她有一个光亮的前额和一副爱吃铁蚕豆的牙齿,七十岁的时候仍然行走如风。只要天不是最冷,她必定脱了老式的内衣,早晚用冷水洗她年轻时也不会太好看的奶子。奶奶曾是贵族,她出生之前,家里曾管过御制宫花的买卖。想想清末宫廷中有多少戴花的女人,就知道这是一件大事业。可奶奶却不懂什么是“满汉全席”,衣服都是布衫,当然更没有花插在头上。宣统皇帝退位的时候(一九一一年),她才十一岁,在这个世纪的其余时间里,她都靠自己的一双手活着。能看出她是满人,只有在她梳头的时候。早上她先在走廊上用冷水把头发抿了,又用一把牙刷沾了有桂花味的头油,亮亮地刷在头发上,又用篦子细细篦过,在脑后挽成一个髻。之后就满意地沏一杯茶,喝的时候声音很大。

多くの人と同じ様に、子供の私に最も深い印象を残したのは、私たちが奶奶と呼んでいた婆やである。奶奶の姓は沈で満族人だった。人より少し長い顔で、皇帝の御像によく似ていた-----彼らの祖先である。彼女は一度結婚したが、うまくいかず離婚して一人で生きてきた。纏足はせず、読み書きはできなかった。子供を産んだことがないせいか、またずっと働いていたせいか、艶々した額と硬い炒りソラマメを食べられる歯をもち、70歳の時ですらすたすたと歩いた。極寒以外は朝晩必ず古風な肌着を脱ぎ、冷たい水で若い頃でさえ見栄えのしなかったであろう乳房を洗った。小母ちゃんはかつては貴族で、彼女の生まれる前の実家は宮廷で使われる花の商いを管理していた。清朝末の宮廷に花で飾った女性がどれほど多くいたか考えてみれば、これが大きな事業だったことが分かるだろう。しかし奶奶は「漢満全席」が何かを知らなかったし、衣服は布シャツで、もちろん髪に花を挿したりしていなかった。宣統帝が退位した時(1911年)、彼女は11歳だった。その世紀の残りの年月を自分の二本の手だけで生きてきたのだ。彼女が満人だと分かるのは、髪を梳くときだけだった。早朝、廊下で先ず髪を冷水で濡らす、次に歯ブラシをモクセイの香りの油に浸して髪に艶々とぬり、すき櫛で丁寧に梳くと頭の後ろで纏め上げて髷にした。そして満足そうにお茶を淹れ、音をたてて飲んだ。

⑦我和妹妹常问:“奶奶,您小时候北京什么样?”“什么样?烧饼一个大子(铜钱)一个,豆浆比现在好喝,过皇上的时候胡同口得围上蓝布,一到冬天街上净是倒伏——饿死的、冻死的。”“还有呢?”“还有?没有了。”这时,她的眼神便茫然起来,有时就这样茫然很久,呆呆地坐着,嘴边会突然露出一个笑,又急急地收住了。想什么呢?她没说。可云影一样的眼神,却把她亲历过的繁华一下子照亮了,一下子又黯淡下去。

私と妹は「奶奶の子供の頃の北京はどんなだったの?」とよく尋ねた。「どんなだったって?お焼き一つが銅貨一個で買えたし、豆乳は今よりずっと美味しかったわ。皇帝のお通りの時は胡同の小道の口を藍布で覆ったの。冬になると通りは倒れてる人がいっぱいで----餓死や凍死ね。」「他には?」「他に?ないわね。」この時、彼女は気が抜けたようになり、時にはかなり長いことぼんやりと座っていた。急に口の端に笑いを浮かべたかとおもうと、すぐに引っ込めた。何考えてるの?彼女は何も答えなかった。けれど薄雲を刷いたような目は、かって経験した華やかさに一瞬のきらめきをみせ、すぐその光を消した。

⑧因为不识字,逢到偶然有人来信,她总是让我念给她听。我念一句,她就应一声,好像在和来信的人对话。念过了,她就把信仔细地叠了,放进衣襟里。她敬爱文字,凡是写了字的纸,不问过决不扔掉。每次我写作文,她必定守在门口,不愿有人打扰我。

字を読めなかったから、偶に手紙をもらうと、いつも私が読んであげた。私が一句読むと、彼女が一句答える。まるで手紙の人と会話しているように。読み終わると手紙を丁寧に畳み、前身ごろにしまった。彼女は字を貴び、およそ字が書かれた紙は、言われなければ決して捨てなかった。私が作文を書くときはいつも、誰かが邪魔をしないようにと戸口を守っていた。

⑨奶奶是那种一生仅得温饱,却体面而自尊的北京人。她精明不失善良,爱面子也给人面子,因为不再是贵族反而靠了双手成了得了贵族气派的劳动者。她衣服永远干净,头发一丝不乱;耳聋,却能听到别人的痛苦;从不惹事也不怕事。每次我犯了错,她总是说:凯歌,我告诉你妈去!——可她其实从不这样做。如果别的孩子欺负了妹妹,她一定拉了妹妹的手找上门去。而别人道了歉之后,她又哈哈地笑着,把两个孩子的手合在一起说:来,拉拉手,拉拉手!她常说:人不兴欺负人。也不兴叫人欺负。让人欺负惯了,你日后就成了坏人了。——中国的传统,受压迫者,以为有正义在手,便只知有报复,不知有宽宥,“即以其人之道还治其人之身”。结果压迫本身代代不绝,只是对象换了。奶奶目不识丁,仍能以这样透彻的道理示于后代,可见她目光之锐,见识之高。可当时的风尚是“对敌人要像严冬一样冷酷无情”,我听不懂奶奶的话是自然的事。

奶奶の人生ははただ衣食は足りたというだけだったが、体面と自負心を持った北京人だった。頭がよくて善良さを失わず、メンツを重んじ義理堅かった。元の身分に戻るべくもない彼女は、自らの才覚で貴族の気概を持った労働者となった。衣服はいつでも清潔で髪には一筋の乱れもなかった。聴力は失ったが人の苦痛は聞く事ができた。揉め事は避けたが、事に臨むのは恐れなかった。私が悪いことをするたび彼女はいつも言った。凯歌、お母さんに言いますよ!と-------しかし実際にそうはしなかった。よその子が妹をいじめると、妹の手を引いて出かけて行き、謝らせた。それから奶奶は笑って子供たちの手をとり、さあ握手して、握手!と言うのだった。彼女はいつも言っていた。人を虐めてはいけないの。人に虐められてもいけないの。いつも虐められていると、悪い大人になってしまうのよ。------虐げられた者は正義は自分の手にあると考え、復讐のみを思って寛容を知らない、これが中国の習いだ。「即以其人之道还治其人之身。」その結果、抑圧自体は代代続き、ただ相手が入れ替わる。奶奶は目に一丁字もなかったが、いつでも明確な道理を次世代に示し、鋭い眼力と高い見識があった。しかし社会が「敵に対しては厳冬同様の冷酷無情を」の時代に、私が奶奶の話を理解しなかったのも自然の成り行きであった。

⑩一件发生在饥荒年代的事却是我没想到的。一九六一年的一个冬日,奶奶把按定量做成的面条端给我和妹妹之后,母亲把我们叫到卧室,关上了门。她在厨房里低低地说了几句什么,就听见奶奶的声音:“我错了!我错了!您原谅我!”未久母亲走回来,一脸的怒气。我和妹妹被着实地吓住了。以后才知道,奶奶把我们定量中的一部分放进了自己碗中。母亲的心情是容易理解的:爱子,又是米贵如金的年代,她是宁愿自己不吃,也要让我们吃饱的,自然不能容忍奶奶的行为。奶奶是一看到母亲的脸就跪下了,之后就是“我错了”的呼声。刺痛我的,并不是奶奶吃了我的食物,却是她有些凄厉的喊声。我宁愿永远不知道这件事。过后,没有人再提到这件事,奶奶依旧在我家,仍然梳头,仍然喝茶,仍然有时茫然着。

しかし凶作のその頃に思いがけない事が起こった。1961年の冬、奶奶は重さを量って私と妹にうどんを作ってくれた後、母は私たちを寝室に入れてドアを閉めた。台所で母は小声で何か言い、すぐに奶奶の声が聞こえた。「申し訳ありません、申し訳ありません!お許しください!」じきに母は戻ってきたが、怒りに満ちた顔で、私と妹はとても驚いていた。後に知ったのだが、奶奶は私たちの分から少しごまかして自分のお椀に入れていたのだった。母の心情は容易に理解できる。子供が可愛いし、米が金ほどに貴重であった年代だ。自分は食べないでも子供には食べさせたかったのだから、奶奶の行為がとうてい容認できないのは当然であったろう。奶奶は母の顔を見るや跪き「申し訳ありません」と叫んだ。私に傷みを与えたのは、奶奶が私の食物をくすねた事ではなく、彼女の甲高い叫び声だった。こんな事は絶対に起こって欲しくなかった。その後、誰もこの件には触れず、奶奶は同じように我が家で働き、やはり髪を梳き、やはりお茶を飲み、やはり時々茫然としていた。

⑪我一直不解,以奶奶的体面、自尊,竟将事情做到钟爱的孩子们身上,必然的理由是:她饿。可那一点点食物果然能减轻她生理上的不适吗?当然不能。惟一的解释只能是:饥饿使她恐惧。恐惧比爱更有力量。

私はずっと分からないでいたのだが、奶奶のメンツ、矜持と私たちに愛情を注いでいた事を考えれば、こんな事をした理由はこれしかない。餓え。あの僅かな量の食物は生理的要求を軽減できたのか?もちろん否だ。唯一の説明は、餓えが彼女を怯えさせた、恐怖が愛情より大きかった、これだけだ。
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by dangao41 | 2011-12-25 11:55 | ??歌 | Comments(1)

少年凯歌 第1章 天国 4

①出门向南穿过小巷,离我家不远的地方就是护国寺。说是寺,有寺之名,无寺之实。所以我很久都以为护国寺不过是过去流传下来的地名。后来走得多了才突然明白,这个今天居住着上千人口,五方杂处的大院落其实就是原来的寺。

門を出て南へ横町を抜けると、家からさほど遠くない所が護国寺だった。地名に寺がついているだけで、実際の寺はなかった。だから私はずっと護国寺とは昔の名が伝わっていたのだと思っていた。その後度々通っているうちに急に気がついた。今では千人以上が住む、この雑居住宅こそがなんと寺であったのだ。

②寺的东西围墙仍然完好,只是斑驳了,很高,约有半华里长。庙的两座后门面北,之间的距离约二十米。单是这两个长度已经可以看出当年庙宇的规模。不知从什么时候起,这两座后门打开,庙内成了行走之地,僧舍内也住了人,时间久了,寺庙就变了样。南面的护国寺街上,山门已不存,代替的是几座店铺,其中一个是花店,冬日也有半街余香。

寺の囲い壁は完全に残っていたが、色は斑だった。丈高く、長さは250メートルほど。廟の2基の後門は北向きで、その間隔は20メートルほど。その幅だけでも当時の廟の規模が分かるだろう。いつの頃からかは知らないが、その2基の後門は開けられて、内部を行き来できるようになっていた。宿坊にも人が住みつき、長い間に廟は変わっていった。南側の護国寺の通りに山門はすでになく、代わって店舗がいくつかできていた。そのうちの一軒は花屋で、冬の日でさえ辺りに香りを漂わせていた。

③我常走的是庙后的西门。要抬起头来才会看到伸出的门檐上,有几乎被风尘湮灭的绿色琉璃瓦,夕照时在隔年的衰草后面闪闪地亮。后门与殿堂相连,实际是个过厅;里面比外边明显的低,可见当年香客踩踏之繁。门内有低低的石阶,甚宽。细细一想,应该是泥塑金妆的天王站立的地方,如今却空着。盛夏,须发皆白的老者在石阶上对坐下棋,老太太们路过歇脚。黄昏时突然走入,会看到台阶上留在夕阳里的糕饼点心,嘴馋的孩子也决不敢碰的。有人说,这是老人们留给庙里的“灵物”黄鼠狼的,因为庙已残破,香火不再,恐怕它无处觅食。也有人说,是“黄大仙”本身因循旧例,偷来食物救济孤苦的。两者都是美丽的故事,而庙确实残破了。

私はいつも後方の西門を通った。顔を上げれば張り出した門櫓が見えた。埃にまみれて色あせた緑の瑠璃瓦は、夕陽が射すと去年の衰草の後できらめいた。後門と殿堂はつながっていて、実際には広間である。中心は周囲と比べて明らかに低い、往時の参拝者が多かったことが見て取れる。中にはとても低い石段があって広々としている。よくよく見れば金色に塗った泥の天子が立つべき場所は、空っぽだ。夏の盛りには、髭も髪も白いお年寄りが石段に対座して将棋を指し、老いた婦人たちがひと休みしている。夕方にふっと入ってみれば、台の上で夕陽を浴びている点心が目にはいるだろう。食いしん坊の子供でさえ決して触ろうとしない。老人たちが廟の「精霊」であるイタチに供えるのだ、と言った人がいた。なぜなら廟は荒れてしまい、もはやロウソクも灯らない、食べ物もないだろうから。又、「黄大仙」とは古くからの因習で、貧者が取って食べられる援助用の食物であるとも言われている。二つ共に美しい話である。そして廟は確かに荒れ果てていた。

④当年香客如云的焚香散花之路已经崎岖不平,遇雨便满地泥泞。廊下僧房中住满了笑闹喧腾的俗众,门窗依旧,没有了往日的肃穆。小作坊的机器声代替了晨钟暮鼓;而应是“大雄宝殿”的所在,变成了一座电影院。门外两座石龟,驮着巨大的石碑,翘首问天,碑上盛记功德的碑文已经苍黑,湮然不可复识了。惟一留下的真迹,是西北角的“地藏殿”,殿宇宛然,偶像俱在。殿前有一榆树,因接近道路,有人经过便摸一把,摸得久了,树腰竟成了一片光滑的白色。树后遍种蓖麻,叶子肥大深绿,苍翠时阳光也照不透。出于好奇,我们常常抓住门上的铜锁,站在露出的门坎上窥探。殿内昏暗潮湿,霉味扑鼻,地藏王菩萨满身灰尘,慧目低垂。神案上除了牌位、香炉之外,还有一大堆凝了的红色烛泪,触目惊心。“文革”开始之后,这里首当其冲地成了红卫兵采取革命行动的“战场”之一。殿门打开,阳光涌入,地藏王菩萨被推下莲花宝座,在尘埃中摔得粉碎。

当時、参拝者の香煙が漂った花屋の道は今は凸凹で雨が降れば一面の泥濘となる。廊下も宿坊も世俗の喧騒で賑やかで、たたずまいは昔のままだが往年の厳粛さはない。町工場の器械の音が朝の鐘、夕の太鼓に代わった。そして「大雄宝殿」であるべき場所には映画館があった。門の二匹の石亀は大きな石碑を背に載せて首を伸ばし天を仰いでいた。功徳を讃えて彫り込まれた碑文は褪せて磨滅し読めない。唯一現存する遺跡は西北角の「地蔵殿」、建物も地蔵も残っていた。その前に一本の楡があった。路に近いもので通る人が触るのであろう、その部分が擦られてつやつやと白くなっていた。楡の後にはトウゴマが植えられていた。葉は大きく深緑で、青々と茂ると陽を遮るほどだった。好奇心で私たちはよく門の銅の錠前を掴み、できた敷居のから覗き見したものだった。中は暗く湿っぽくて黴臭かった。地蔵菩薩は埃にまみれて智慧の眼を下に向けていた。祭壇には御位牌と香炉の他に、積まれたまま固まってしまった赤いロウソクの一山がおかれ、目にすると落ち着かない気持ちがした。「文革」が始まるとここは、紅衛兵が革命的行動を講ずる「戦場」の一つとして真っ先に攻撃さfれた。堂門は開けられ太陽に晒され、地蔵菩薩は蓮座から引き下ろされて埃の中で砕かれた。 

⑤宗教的脆弱,是中国的一大问题。四十年来对宗教,害处听得多,好处听得少,是宣传的一大特色。一来因其与“无神论”的主义相悖,有碍“思想统一”,二来恐其“与党争民”,所以不能容忍。其实,气度恢宏的统治者,深谋远虑,总会意识到宗教维系精神、稳定社会的好处,而加以保护。但在一九四九年以后,曾经遍布禅林的北京,僧众流散,寺庙荒凉,对于我们这些革命后出生的少年来说,宗教几乎等于旧世界的代名词了。

宗教的なもろさは、中国の大きな問題点である。40年来宗教に対して幣害ばかりを言いたてその長所を言わなかった。これが喧伝の特徴である。一つには「無神論」的な主義との矛盾があり、「思想統一」の妨げとなる。二つには「党との民争奪」の恐れがあり、容認は不可能であった。実をいえば、度量の大きい統治者なら深謀遠慮を持って、宗教の精神維持的な役割と穏健社会の長所を図り、保護したであったろう。しかし1949年以降、かつては寺院が至る所にあった北京の僧侶は散り散りとなり寺院は荒れ果てた。私たちのような革命後に生まれた少年にとって、宗教とは時代遅れの代名詞に等しかった。

⑥在这个决不完美的世界上,宗教是个去处。它使做了好事的人有地方去欣喜,做了坏事的人有地方去忏悔;失望的得了希望,绝望的至少得了安慰。信仰是文明的开始。相信,需要天真和勇气——重要的是相信本身,倒不是相信的一定要是什么。只要人尚能相信,这世界就还有救。杀死了天真和勇气,剩下的就是一群暴民了。信仰实在是人性的围墙。而在“文革”开始的最初日子里,几乎所有的暴力无不首先发生于信仰的领地:孔庙、佛寺、天主教或基督教堂。

この決して完璧とは言えない世界で、宗教はひとつの拠り所である。 善を行う人に喜びの場を与え、悪を行う人に懺悔の場を与える。失望している人に希望を、絶望している人は慰めを与える。信仰は文化への第一っ歩である。信じること、疑うことなく勇気を持って----大事なのは信心それ自体であり、信じる対象は何でもよい。人が信心さえあればこの世界はまだ救えるのだ。邪気なき心と勇気を殺してしまったら、残るのは暴徒の群れである。信仰は実際に個人的な事である。「文革」の初期の頃、殆ど全ての暴力は真っ先に信仰の地である孔子廟、仏寺、カトリック教会やキリスト教会で起こった。

⑦一九六五年,庙会已经被禁止,接着,民间的丧葬嫁娶仪式也被禁止。接着,北京南城享有百年盛名,在中国人欢庆新年时几乎无人不去的文化集市——厂甸街,宣告关闭。接着,就轮到了北京城墙。

1965年、廟会が禁止され、続いて民間の冠婚葬祭の儀礼も禁止された。その結果、100年の名声のある北京南城は、新年を祝って参拝する中国人がほぼ皆無の市となり----廠の外街は閉鎖を言い渡された。その次は北京城壁の番だった。

⑧一九四九年初,清末大儒梁启超之子——建筑师梁思成教授,住在其执教的清华大学。当时内战大局已定,解放军攻城刻在日内。一夜,有客来访,自称共产党城市工作部干部,特携带北京市区地图,要梁先生指明何处不可用兵,何处不可开炮。共产党于争夺天下之际,尚能虑及古都文物的保护,据说,是梁思成日后感戴投报的原因。不久,北京未被战火而和平易手,使八百年古迹得以保留,是中国的大幸运。所以可以想象梁先生听到毁城设想时的心情。他曾力谏政府首脑放弃这一计划;他的夫人甚至誓言:城破之日,自取其命。但是,以“城墙妨碍首都建设”为名,计划终于变成现实。在现代化机械的频频击打之下,木石俱下,烟尘大起,顿成废墟。被分段拆除的城墙,砖石今已不知去向,少量的可以发现于民间的鸡窝兔舍。传说:在明初重修城墙时,工匠曾用熬熟的米汤和泥浇铸,以求坚固,可见毁城工程的艰难浩大。多在夜间操作的轰轰机声未能惊醒北京人,而城市从大梦中醒来时已成裸体。世代居住北京的人民中,竟无一人与古墙共存亡者,实在辜负了这城。有识之士,慑于一九五七年“反右”,一九五九年“反右倾”,一九六二年的“大抓阶级斗争”而大多匍伏在地。与此同时,这座始建于元代,经明成祖朱棣重修,此后代代维护,长达数十华里的八百年古城墙轰然倒塌了。一个旧梦随风雨而逝,永远不再。一九八六年,我站在纽约现代艺术博物馆内,注视西方人于一八九三年拍摄的旧京城墙照片,回想它延伸阔大的雄姿,不胜唏嘘。

1949年初頭、清朝末の大学者、梁啓超の子-----建築家梁思成教授は職場である精華大学に住んでいた。当時、内戦の大局はすでに決まり、解放軍は日中に北京に乗り込んできた。ある夜、訪れる人あって自分は共産党の都市工作隊幹部だと名乗った。北京の地図を持参し、まず梁さんに、どこに兵が必要か、どこに大砲が必要かはっきり示してもらいたいと言った。共産党は権力を掌握できるか否かの瀬戸際にさえ、古都の文化財を保護しようと配慮ができた。これに梁思成は恩を感じて協力したといわれている。ほどなく、北京は戦火に遭うことなく平和を手にし、800年の旧跡は保たれた。中国の大幸運であった。だから梁氏が城を破壊する計画を聞いた時の心情を想像できるだろう。彼は政府首脳に計画を中止するよう必死で諌めた。梁夫人はとうとう、城を壊す日に自害します、と誓言までした。しかし、「城壁は首都建設の障碍」の名目で、計画はとうとう現実のものとなった。現代的な機械に叩かれ続けて、木石もろとも、もうもうと埃を立て、たちまちに廃墟となった。何回かに分けて壊した城壁とレンガは何処へいったのだろう。そのほんの一部は民間のニワトリやウサギの小屋に見ることができるのだが。明朝の始め、城壁を修理したとき、工匠は堅さを追求して煮詰めた重湯と泥を鋳型に流したと伝えられている。その城を壊す過程は困難を極めたであろう。夜間に多くなされた工事のドカンドカンという機械の音でも、北京人はまだ気付かずに眠っていた。街が夢から覚めた時は既に丸裸となっていた。代々北京に住む住民のうち、命をかけてでも古壁を守ろうとした者は一人もいなかった。実際、城への裏切りであう。しかし1957年の「反右」、1959年の「反右傾」、1962年の「大階級闘争」と見識者は脅かされ大多数が身を潜めていた。ちょうどこの時期に、元代に始まり、明の成祖朱棣の改修を経て、これまで永永と保ってきた、その長さ数キロに及ぶ800年の歴史ある古城壁は轟音と共に崩れ落ちたのであった。過ぎ去ったものは、もはや戻ってこない。1986年、私はニューヨークの現代美術館で、西洋人が1893年に撮影した古い京城の写真を、じっと見つめていた。伸びやかで堂々としたその雄姿を思い出すと、涙を押さえる事ができなかった。

⑨至此,精神和物质的旧墙均已归于消灭。从不设防的国度中醒来的人们,看到空旷的地平线上一轮巨大的红太阳,在短暂的幕间休息之后,天国的钟声又响了。

これで、精神的・物質的共に古壁は消滅した。反対の声を上げられなかった中国の目覚めた者たちは、遮るもののない地平線の上に巨大な赤い太陽を見た。短い幕間の後、天からの鐘音も鳴り響いた。 (第1章終わり)
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by dangao41 | 2011-12-25 11:50 | ??歌 | Comments(3)