林奶奶 2

  她曾邀一个亲戚同住,彼此照顾。这就是林奶奶的长远打算。她和我讲:“我死倒不怕,”——吃苦受累当然也不怕,她一辈子不就是吃苦受累吗?她说,“我就怕老来病了,半死不活,给撩在炕上,叫人没人理,叫天天不应。我眼看着两代亲人受这个罪了……人说‘长病没孝子’,……孝子都不行呢……”她不说自己没有孝子,只叹气说“还是女儿好”。不过在她心目中,女儿当然也不能充孝子。

おばさんは以前、親戚の一人を誘って同居させた事がある。互いに面倒を見っこしようという訳だ。これがおばさんの長期を見据えた考えであった。おばさんは私にこう言った。「あたしは死ぬのは恐くないんだよ。」——苦労も恐くないのは当たり前、彼女の生涯は苦労の連続だったではないか。「あたしは年とって病むのが恐いんだ。半死半病でオンドルに置き捨てられて、誰も気にかけてくれない、誰も答えてくれない毎日が恐い。あたしは二代の親戚がそうされたのをこの目で見てきた……“長患いに孝行なし”っていうよね、……孝行なんて当てにならない……“おばさんは自分の子が親孝行でないとは言わなかった。ただ溜め息をつき”娘の方はいい子なんだ。“ でも娘では孝行息子の代わりにならない、のがおばさんの胸の内であった。

  她和那个亲戚相处得不错,只是房间太小,两人住太挤。她屋里堆着许多破破烂烂的东西,还摆着一大排花盆——林奶奶爱养花,破瓷盆、破瓦盆都种着鲜花。那个亲戚住了些时候有事走了,我怀疑她不过是图方便;难道她真打算老来和林奶奶做伴儿?林奶奶指望安顿亲友的另两间房里,住的是与她为仇的“街坊”。

おばさんと親戚の人はうまくやっていた、ただ二人で住むには家が狭すぎた。部屋にはがらくたが沢山積まれ、その上植木鉢も並んでいた。おばさんは花を育てるのが好きだったのだ。欠けた皿小鉢にはみな花が植わっていた。親戚の人は暫く住むと用事があるとかで出て行ったのだが、私は方便ではなかったかと怪しんだ。親戚は本当におばさんと一緒にずっと住むつもりでやって来たのであろうか? おばさんは近しい人と落ち着いて暮らせる二間の家を期待していたのだが、そこに住んでいるのはおばさんとは仇である“隣”だった。  

  那年冬天,林奶奶穿着个破皮背心到我家来,要把皮背心寄放我家。我说:“这天气,皮背心正是穿的时候,藏起来干吗?”她说:“怕人偷了。”我知道她指谁,忍不住说,“别神经了,谁要你这件破皮背心呀!”她气呼呼的含忍了一会儿,咕哝说:“别人我还不放心呢。”我听了忽然聪明起来。我说:“哦,林奶奶,里面藏着宝吧?”她有气,可也笑了,还带几分被人识破的不好意思。我说,“难怪你这件背心鼓鼓囊囊的。把你的宝贝掏出来给我,背心你穿上,不好吗?”她大为高兴,立即要了一把剪子,拆开背心,从皮板子上揭下一张张存款单。我把存单的帐号、款项、存期等一一登记,封成一包,藏在她认为最妥善的地方。林奶奶切切叮嘱我别告诉人,她穿上背心,放心满意而去。

その年の冬、破れた皮のチョッキを着てやって来た。チョッキを私の家に置きにきたのだ。「この気候だから皮チョッキは必要よ。どうして置いていくの?」「人に盗まれるといけないから。」私はおばさんが誰の事を言っているのか知っていた。我慢できずに言ってしまった。「心配ないわ、誰がこの破れたチョッキを取るものですか!」おばさんは怒りを抑えるとぼそぼそと言った。「他の人だって心配なんだよ。」これを聞いて私は即座に理解した。「ああ、おばさん、中に宝物が隠してあるのね?」と聞くとおばさんは腹を立てたが笑いもした。見破られたので幾分かは気まりが悪かったのである。「道理で満々に膨らんでいるわけだわ。その宝物を出して私に寄こして、あなたはチョッキを着るの。どう?」おばさんはとても喜んで、すぐに鋏を取って糸を解き、皮に付いた一枚一枚の預金預かり証を剥がした。私は証書番号、金額、期日など一つ一つ書き留め封をして一包みにし、おばさんが最も妥当だと思う場所に仕舞った。おばさんは人には言ってくれるなと何度も繰り返し、チョッキをを着て、安心し満足して帰っていった。

  可是日常和仇人做街坊,林奶奶总是放心不下。她不知怎么丢失了二十块钱,怀疑“街坊”偷了。也许她对谁说了什么话,或是在自己屋里嘟嚷,给“街坊”知道了。那“街坊”大清早等候林奶奶出门,赶上去狠狠的打了她两巴掌,骑车跑了。林奶奶气得几乎发疯。我虽然安慰了她,却埋怨她说,“准是你上厕所掉茅坑里了,怎能平白冤人家偷你的钱呢?”林奶奶信我的话,点头说:“大概是掉茅坑里了。”她是个孤独的人,多心眼儿当然难免。

けれど常日頃近所とやり合っていたので、いつも安心とはいかなかった。おばさんは二十元がどうして無くなったのか分からず、“隣”が盗んだと疑っていた。彼女は誰かにこの事を話したか、或いは家の中でぶつぶつ言ったのであろう、“隣”の知るところとなった。その“隣”は朝早く彼女が出てくるのを待ち、追いかけて乱暴に平手打ちを二発食わせ、自転車で走り去った。おばさんは怒って気が狂わんばかりであった。私は慰めたけれど彼女をたしなめもした。「あなたが厠を浚ってみるのが筋と云うものよ、謂われもなく、お金を盗んだなどと濡れ衣を着せるものではないわ。」おばさんは私の言うことを受け入れ頷いて言った。「たぶん厠に落したんだ。」彼女は独りぼっちだったから、疑り深くなるのもいたし方ない事ではあったが。

 我的旧保姆回北京后,林奶奶已不在我家洗衣,不过常来我家作客。她挨了那两下耳光,也许觉得孤身住在城里不是个了局。她换了调子,说自己的“儿子好了”。连着几年,她为儿子买砖、买瓦、买木材,为他盖新屋。是她儿子因为要盖新屋,所以“好了”;还是因为他“好了”,所以林奶奶要为他盖新屋?外人很难分辨,反正是同一回事吧?我只说:“林奶奶,你还要盖房子啊?”她向我解释:“老来总得有个窝儿呀。”
她有心眼儿,早和儿子讲明:新房子的套间——预定她住的一间,得另开一门,这样呢,她单独有个出入的门,将来病倒在炕上,村里的亲戚朋友经常能去看看她,她的钱反正存在妥当的地方呢,她不至于落在儿子、媳妇手里。

 家の昔のお手伝いが北京に戻ってからは、おばさんはもう我が家の洗濯はしなかったが、よく遊びにきた。彼女はあの平手打ちの件以来、一人で街中に住まうのが結局は良くないと思ったらしい。口振りが変わって自分の“息子は良い”と言う。ここ数年、彼女は息子が新居を建てるために煉瓦を買い、瓦を買い、材木を買った。息子が新しい家を建てるから”良い“のか、それとも彼が”良い”からおばさんが息子のために家を建てるのだろうか?他人には分からない。そもそもが同じ事柄に関してなのだろうか?私はただ「おばさん、やはり家を建てるの?」と聞いた。彼女は説明して「年を取ったらどうしたって巣を持たなくては。」と言った。彼女は抜け目なく、新しい家の奥の部屋、彼女が住まうことになる一室に、別の戸口を作ることを、早くから息子にはっきりと主張しておいた。つまりおばさん専用の出入り口だ。将来、病気になってオンドルに臥せっても村の親戚知人にいつでも見舞いに来てもらえる。それなら彼女のお金も妥当な場所にしまって置けて、息子や嫁の言いなりになる事もないだろう。


 一天晚上,林奶奶忽来看我,说:“明儿一早要下乡和儿子吵架去”。她有一二百元银行存单,她儿子不让取钱。儿子是公社会计,取钱得经他的手。我教林奶奶试到城里储蓄所去转期,因为郊区的储蓄所同属北京市。我为她策划了半天,她才支支吾吾吐出真情。原来新房子已经盖好了。她讲明要另开一门,她儿子却不肯为她另开一门。她这回不是去捞回那一二百块钱,却是借这笔钱逼儿子在新墙上开个门。我问:“你儿子肯吗?”她说:“他就是不肯!”我说,“那么,你老来还和他同住?”她发狠说,“非要他开那个门不可。”我再三劝她别再白怄气,她嘴里答应,可是显然早已打定主意。

ある晩、おばさんは急に私に会いに来て言った、「明日の朝早く息子と談判しに村へ行く。」彼女は百元か二百元の預金があるのだが、息子はお金を引き出させてくれない。彼は公社の会計で、お金は彼の手を経なければならないという。私はおばさんにこの町の貯蓄所へ出向いてこちらで下ろせるかを試してごらんなさい、郊外の貯蓄所は北京市の支店なのだから、と教えた。彼女のためにいろいろ考えてあげて暫くすると、やっとおばさんは言葉を濁しながらも本音を吐いた。新しい家はとっくに出来上がっていた。彼女は別々の戸口が要るとはっきりと言いつけていたのに、息子はおばさん用の戸口を作らなかった。そうなったからには、その一、二百元をどうしても取り戻さなくてはならない、そしてそのお金で息子に新しく家の壁に戸口を作らせるのだという。「息子さんは承知しているの?」と聞くと「それがしないんだよ。」と言う。「それでも一緒に住むつもり?」と聞けば彼女はきっぱりと「何が何でもあの子は戸口を作らなければだめだ。」と言う。私は繰り返し無暗に腹を立てないよう言い聞かせたが、とっくに気持ちを決めていたのは明らかで、生返事をするだけであった。

 她回乡去和儿子大吵,给儿媳妇推倒在地,骑在她身上狠狠地揍了一顿,听说腰都打折了。不过这都只是传闻。林奶奶见了我一句没说,因为不敢承认自己没听我的话。她只告诉我经公社调停,捞回了那一小笔存款。我见她没打伤,也就没问。

田舎に帰った彼女は息子と大喧嘩となり、嫁に押し倒され馬乗りで殴りつけられて腰の骨を折ったらしい。しかし伝え聞いた話である。私の忠告を聞かなかったのを認めたくないので、おばさんは私には何も言わなかった。ただ公社の仲立ちであの預金を取り戻したと告げた。怪我したところも見えなかったので、私は何も問わなかった。

 林奶奶的背越来越驼,干活儿也没多少力气了。幸亏街道上照顾她的不止一家。她又旧调重弹“还是女儿好”。她也许怕女儿以为她的钱都花在儿子身上了,所以告诉了女儿自己还有多少存款。从此以后,林奶奶多年没有动用的存款,不久就陆续花得只剩了一点点。原来她又在为女儿盖新屋。我末了一次见她,她的背已经弯成九十度。翻开她的大襟,小襟上一只只口袋差不多都是空的,上面却别着大大小小不少别针。不久林奶奶就病倒了,不知什么病,吐黑水——血水变黑的水。街道上把她送进医院,儿子得信立即赶来,女儿却不肯来。医院的大夫说,病人已没有指望,还是拉到乡下去吧。儿子回乡找车,林奶奶没等车来,当晚就死了。我相信这是林奶奶生平最幸运的事。显然她一辈子的防备都是多余了。

おばさんの背はますます曲がり、仕事をする体力もなくなってしまった。幸いなことに街道沿いでおばさんを気に掛けてくれるのは一軒や二軒ではなかった。彼女はまたもや「娘はやっぱり良いのだ」と言いだした。おばさんは息子のためばかりにお金を使った事を気にしていたのだろう、まだ幾ら貯金があるかを娘に告げたのだ。その後、おばさんが長いこと使わないでいた貯金は、いくらも経たないで度々引き出されごく僅かになってしまった。なんと彼女は娘の新居も援助してやったのだ。私が最後に彼女を見た時、おばさんの背中は90度に曲がっていた。服を開けば大小の衽に付けた小袋のほとんどは空なのに、上には別に大小の少なからぬピンが差してあった。程なくしておばさんは病に倒れ、何の病気かは分からないのだが黒い液体、血液が変色したものを吐いた。彼女は医院に運ばれ、知らせを受けた息子は駆けつけたが、娘は来ようとはしなかった。もう助かる見込はない、村に連れて帰りなさいと医者は言い、息子は車を探しに村に戻った。が、おばさんは車を待たずにその晩亡くなった。私にはこれは彼女の人生で最も幸せな事だったと思える。彼女の一生涯をかけた備えは明らかに不必要であったのだ。

  林奶奶死后女儿也到了,可是不肯为死人穿衣,因为害怕。她说:“她又不是我妈,她不过是我的大妈。我还恨她呢。我十四岁叫我做童养媳,嫁个傻子,生了一大堆傻子……”(我见过两个并不傻,不过听说有一个是“缺心眼儿”的)。女儿和儿子领取了林奶奶的遗产:存款所余无几,但是城里的房产听说落实了。据那位女儿说,他们乡间的生活现在好得很了,家家都有新房子,还有新家具,大立柜之类谁家都有,林奶奶的破家具只配当劈柴烧了。

娘はおばさんが亡くなってからやって来たが、経帷子を着せるのは気味悪がってしなかった。「あの人は私の母なんかじゃない、伯母ですよ。あの人には恨みもあります。14の時、トンヤンシに出され、馬鹿の嫁になり、馬鹿をどっさり生みましたよ……」 《私が会った二人はちっとも馬鹿ではなかったが、別の一人は“間が抜けている”そうだ》 娘と息子はおばさんの遺産をもらった。預金はいくらも残っていなかったが、受け継いだ町の家屋は確かな財産だった。
娘の話によれば、村の生活も今ではたいそう良くなり、どの家も新しくなり、新しい家具もあり、みんな洋服ダンスなども持っている。おばさんの傷んだ家具は薪にしかならなかったという。

  林奶奶火化以后,她娘家人坚持办丧事得摆酒,所以热热闹闹请了二十桌。散席以后,她儿子回家睡觉,忽发现锅里蟠着两条三尺多长、满身红绿斑纹的蛇。街坊听到惊叫,赶来帮着打蛇。可是那位儿子忙拦住说“别打,别打”,广开大门,把蛇放走。林奶奶的丧事如此结束。锅里蟠两条蛇,也不知谁恶作剧;不过,倒真有点像林奶奶干的。
                                                     一九八四年四月

              
おばさんを荼毘に付した後、彼女の実家はどうしても葬儀の酒席を設けたいといい、盛大に二十卓のもてなしを行った。葬式の後、息子は家に寝に帰り、出し抜けに、鍋の中に二匹の三尺余りもある赤と緑の斑紋の蛇がとぐろを巻いているのを見付けた。叫び声を聞いた隣人はすぐさま助けに来て蛇を叩いた。けれど息子は「打つな、打つな。」と慌てて止め、戸を大きく開き蛇を逃がした。おばさんの葬儀はこのように終わった。
鍋でとぐろを巻いていた二匹の蛇が誰の悪戯かは分からない。しかし、どうにもおばさんの仕出かしそうな事ではあった。   
                                                    2009・11


原文 http://www.millionbook.com/xd/y/yangjiang/000/019.htm
                   -
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by dangao41 | 2011-08-10 17:12 | 楊絳 | Comments(2)

孟婆茶

我登上一列露天的火车,但不是车,因为不在地上走;像筏,却又不在水上行;像
飞机,却没有机舱,而且是一长列;看来像一条自动化的传送带,很长很长,两侧设有
栏杆,载满乘客,在云海里驰行。我随着队伍上去的时候,随手领到一个对号入座的牌
子,可是牌上的字码几经擦改,看不清楚了。我按着模糊的号码前后找去:一处是教师
座,都满了,没我的位子;一处是作家座,也满了,没我的位子;一处是翻译者的座,
标着英、法、德、日、西等国名,我找了几处,都没有我的位子。传送带上有好多穿灰
色制服的管事员。一个管事员就来问我是不是“尾巴”上的,“尾巴”上没有定座。可
是我手里却拿着个座牌呢。他要去查对簿子。另一个管事员说,算了,一会儿就到了。
他们在传送带的横侧放下一只凳子,请我坐下。
  ①作者曾将《回忆两篇》、《围城》合编为《将饮茶》一书。此文与《隐身衣》曾
作为代前言与代后记印于前书后。编者注。


我找座的时候碰到些熟人,可是正忙着对号,传送带又不停的运转,行动不便,没
来得及交谈。我坐定了才看到四周秩序井然,不敢再乱跑找人。往前看去,只见灰蒙蒙
一片昏黑。后面云雾里隐隐半轮红日,好像刚从东方升起,又好像正向西方下沉,可是
升又不升,落也不落,老是昏腾腾一团红晕。管事员对着手拿的扩音器只顾喊“往前看!
往前看!”他们大多凭栏站在传送带两侧。
我悄悄向近旁一个穿灰制服的请教:我们是在什么地方。他笑说:“老太太翻了一
个大跟头,还没醒呢!这是西方路上。”他向后指点说:“那边是红尘世界,咱们正往
西去。”说罢也喊“往前看!往前看!”因为好些乘客频频回头,频频拭泪。
我又问:“咱们是往哪儿去呀?”
他不理睬,只用扩音器向乘客广播:“乘客们做好准备,前一站是孟婆店;孟婆店
快到了。请做好准备!”
前前后后传来纷纷议论。
“哦,上孟婆店喝茶去!”
“孟婆茶可喝不得呀!喝一杯,什么事都忘得一干二净了。”
“嗐!喝它一杯孟婆茶,一了百了!”
“我可不喝!多大的浪费啊!一杯茶冲掉了一辈子的经验,一辈子不都是白活了?”
“你还想抱住你那套宝贵的经验,再活一辈子吗?”
“反正我不喝!”
“反正也由不得你!”
管事员大概听惯这类议论。有一个就用扩音器耐心介绍孟婆店。
“‘孟婆店’是习惯的名称,现在叫‘孟大姐茶楼’。孟大姐是最民主的,喝茶决
不勉强。孟大姐茶楼是一座现代化大楼。楼下茶座只供清茶;清茶也许苦些。不爱喝清
茶,可以上楼。楼上有各种茶:牛奶红茶,柠檬红茶,薄荷凉茶,玫瑰茄凉茶,应有尽
有;还备有各色茶食,可以随意取用。哪位对过去一生有什么意见、什么问题、什么要
求、什么建议,上楼去,可分别向各负责部门提出,一一登记。那儿还有电视室,指头
一按,就能看自己过去的一辈子——各位不必顾虑,电视室是隔离的,不是公演。”
这话激起哄然笑声。
“平生不作亏心事,我的一生,不妨公演。”这是豪言壮语。
“得有观众欣赏呀!除了你自己,还得有别人爱看啊!”这是个冷冷的声音。
扩音器里继续在讲解:
“茶楼不是娱乐场,看电视是请喝茶的意思。因为不等看完,就渴不及待,急着要
喝茶了。”
我悄悄问近旁那个穿制服的:“为什么?”
他微微一笑说:“你自己瞧瞧去。”
我说,我喝清茶,不上楼。
他诧怪说:“谁都上楼,看看热闹也好啊。”
“看完了可以再下楼喝茶吗?”
“不用,楼上现成有茶,清茶也有,上去就不再下楼了——只上,不下。”
我忙问:“上楼往哪儿去?不上楼又哪儿去?”
他鼻子里哼了一声说:“我只随着这道带子转,不知到哪里去。你不上楼,得早作
准备。楼下只停一忽儿,错过就上楼了。”
“准备什么?”
“得轻装,不准夹带私货。”
我前后扫了一眼说:“谁还带行李吗?”
他说:“行李当然带不了,可是,身上、头里、心里、肚里都不准夹带私货。上楼
去的呢,提意见啊,提问题啊,提要求啊,提完了,撩不开的也都撩下了。你是想不上
楼去呀。”
我笑说:“喝一杯清茶,不都化了吗?”
他说:“这儿的茶,只管忘记,不管化。上楼的不用检查。楼下,喝完茶就离站了,
夹带着私货过不了关。”
他话犹未了,传送带已开进孟婆店。楼下阴沉沉、冷清清;楼上却灯光明亮,热闹
非常。那道传送带好像就要往上开去。我赶忙跨出栏杆,往下就跳。只觉头重脚轻,一
跳,头落在枕上,睁眼一看,原来安然躺在床上,耳朵里还能听到“夹带私货过不了
关”。
好吧,我夹带着好些私货呢,得及早清理。

                  一九八三年十月底
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  一鸣扫描,雪儿校对
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by dangao41 | 2010-07-30 10:02 | 楊絳 | Comments(0)

客气的日本人 杨绛

抗战后期,我和默存一同留在沦陷的上海,住在沿街。晚上睡梦里,或将睡未睡、
将醒未醒的时候,常会听到沉重的军靴脚步声。我们惊恐地悄悄说:“捉人!”说不定
哪一天会轮到自己。

朋友间常谈到某人某人被捕了。稍懂门路的人就教我们,一旦遭到这类事,可以找
某某等人营救;受讯时第一不牵累旁人,同时也不能撒谎。回答问题要爽快,不能迟疑,
不能吞吞吐吐,否则招致敌人猜疑。谎话更招猜疑,可是能不说的尽量巧妙地隐瞒。
那时默存正在写《谈艺录》。我看着稿子上涂改修补着细细密密的字,又夹入许多
纸条,多半是毛边纸上用毛笔写的。我想这部零乱的稿子虽是学术著作,却经不起敌人
粗暴的翻检,常为此惴惴不安。

一九四五年四月间,一天上午九十点钟,默存已到到学校上课。我女儿圆圆幼年多
病,不上学,由我启蒙,这时正在卧房里做功课。我们的卧房是个亭子间,在半楼梯。
楼下挨厨房的桌上放着砧板,摊着待我拣挑的菜——我正兼任女佣,又在教女儿功课。
忽听得打门声,我就去应门;一看二位来客,觉得他们是日本人(其实一个是日本人,
一个是朝鲜人,上海人称为“高丽棒子”);我忙请他们进来,请他们坐,同时三脚两
步逃上半楼梯的亭子间,把一包《谈艺录》的稿子藏在我认为最妥善的地方,随即斟了
两杯茶送下去——倒茶是为藏稿子。

他们问:“这里姓什么?”
“姓钱。”
“姓钱?还有呢?”
“没有了。”
“没有别家?只你们一家?”
“只我们一家。”

他们反复盘问了几遍,相信我个是撒谎,就用日语交谈,我听个懂。
“有电话吗?”
我告诉他们电话在半楼梯(我们卧房的门口)。我就站在桌子旁边拣菜。
叔父在三楼,听日本人用日本话打电话,就下楼来,他走到我身边,悄声说:
“他们是找你。我看见小本子上写的是杨绛。你还是躲一躲吧。”

我不愿意躲,因为知道躲不了。但叔父是一家之主,又是有阅历有识见的人,他叫
我躲,我还是听话。由后门出去,走几步路就是我大姐的朋友家。我告诉叔父“我在五
号”,立即从后门溜走。

我大姐的朋友大我十五六岁,是一位老姑娘,一人带着个女佣住一间底层的大房间,
我从小喜欢她,时常到她家去看看她。她见了我很高兴,说她恰恰有几个好菜,留我吃
饭。她怕我家里有事,建议提早吃饭。我和她说说笑笑闲聊着等吃饭。饭菜有炒虾仁、
海参、蹄筋之类。主人殷勤劝食,我比往常多吃了半碗饭。我怕吓着老人,一字未提家
有日本人找,不过一向和她说笑,心上直挂念着该怎么办。

饭后,她叫我帮她绕毛线。我一面绕,一面闲闲地说起:家里有日本人找我呢,我
绕完这一股,想回去看看。

她吃一大惊说:“啊呀!你怎么没事人儿似的呀?”
我说:“不要紧的,我怕吓了你。”
正说着,九弟(默存的堂弟)跑来了。他说:“日本人不肯走,他们说嫂嫂不回去,
就把我和多哥(默存的另一堂弟)带走。”
“我知道这是叔父传话,忙说:‘我马上回来。你在大门口附近等着宣哥(默存),
叫他别回家,到陈麟瑞先生家去躲一躲。’九弟机灵可靠,托他的事准办到。”

我想:溜出门这半天了,怎么交代呢。一眼忽见一篮十几个大鸡蛋,就问主人借来
用用,我提着篮子,绕到自己家大门口去敲门。我婆婆来开门。她吓得正连声嚷气,见
了我惶急说:“你怎么来了?”我偷偷儿对她摆手,一面大步往里走,一面大声说:
“我给你买来了新鲜大鸡蛋!又大又新鲜!”说着已经上楼,到了亭子间门口。只见圆
圆还坐在小书桌横头,一动不动,一声不响。柜子和书桌抽屉里的东西部倒翻在书桌上、
床上和柜子上。那“高丽棒子”回身指着我大声喝问:“杨绛是谁?”
我说:“是我啊。”
“那你为什么说姓钱?”
“我嫁在钱家,当然姓钱啊!”

我装出恍然大悟的样儿说:“原来你们是找我呀?咳!你们怎么不早说?”我把篮
子放在床上,抱歉说:“我婆婆有胃病,我给她去买几个鸡蛋——啊呀,真对不起你们
两位了,耽搁了你们这么多时间。好了,我回来了,我就跟你们走。”

日本人拿出一张名片给我。他名叫荻原大旭,下面地址是贝当路日本宪兵司令部。
我说:“好吧,我跟你们一起去!”
日本人说:“这会儿不用去了。明天上午十点,你来找我。”
我问:“怎么找呢?”
“你拿着这个名片就行。”他带着“高丽棒子”下楼。我跟下去,把他们送出大门。

据家里人讲,我刚溜走,那两个客人就下楼找“刚才的妇女”。他们从电话里得知
杨绛是女,而我又突然不见,当然得追究。我婆婆说“刚才的妇女”就是她。她和我相
差二十三岁,相貌服装全然不同。日本人又不是傻瓜。他们随即到我屋里去搜查,一面
追问圆圆,要她交代妈妈哪里去了。圆圆那时八岁,很乖,随那两人吓唬也罢,哄骗也
罢,她本无表情,百问不一答。

日本人出门之后,家里才摆上饭来。我婆婆已吓得食不下咽。我却已吃了一餐好饭,
和默存通过电话,他立即回家。他也吃过饭了。我把散乱在桌上、柜上和床上的东西细
细拣点,发现少了一本通信录,一叠朋友寄我的剪报,都是宣传我编的几个剧本的,还
有剧团演员联名谢我的一封信。这个剧团的演员都很进步,我偶去参观他们排演,常看
到《四大家族》之类的小册子。不过他们给我的信上并没有任何犯禁的话。他们都是名
演员,不必看了信才知道名字。

那时候李健吾先生已给日本宪兵司令部拘捕多时,还未释放。我料想日本人找我,
大约为了有关话剧的问题,很可能问到李先生。那么,我就一口咬定和他不熟,他的事
我一概不知,我只因和李太太是同乡又同学,才由她认识了李先生(其实,我是由陈瑞
麒先生而认识李先生的)。

听略有经验的人说,到日本宪兵司令部去的都要填写一份表格,写明自己的学历、
经历等等。最关键的部分是社会关系。我想,我的通信簿既已落在他们手里,不妨把通
信簿上女朋友的姓字填上几个,反正她们是绝无问题的;李太太的名字当然得填上。至
于话剧界的人,导演是人人皆知的名人,剧团的头儿也是广告上常见的。如果问到,我
只说个名字,有关他们的事,我和他们没有私交,一概不知。我像准备考试一般,把自
己的学历经历温习一下,等着明天去顶就是了。所以我反而一心一意,上床就睡着了。
半夜醒来,觉得有件大事,清醒了再想想,也没有什么办法,就把准备回答的问题在心
上复习一遍,又闭目入睡。我平时不善睡,这一晚居然睡得相当平静。

明早起来,吃完早点就准备出门。穿什么衣服呢?不能打扮,却也不能肋脦。我穿
一身半旧个新的黑衣黑鞋,拿一只黑色皮包。我听说日本人报复心很强。我害他们等了
我半天,就准备他们叫我等待一天。我免得耗费时间,也免得流露出个安的情绪,所以
带本书去看看。我不敢带洋书,带了一本当时正在阅读的《杜诗镜铨》。那是石印的线
装书,一本一卷,放在皮包里大小正合式。我告诉家里:上午别指望找能回家,如果过
了一夜个归,再设法求人营救。我雇了一辆三轮到日本宪兵司令部。
到那里还早十多分钟。我打发了三轮,在干净而清静的人行道上慢慢儿走了一个大
来回,十点前三分,我拿着荻原大旭的名片进门。

有人指点我到一间大教室似的屋里去。里面横横竖停摆着大小各式的桌子和板凳。
男女老少各等各样的人都在那儿等待。我找个空座坐下,拿出书来,一门心思看书。不
到半小时,有人来叫我,我就跟他走,也不知是到哪里去。那人把我领到一间干净明亮
的小会客室里,长桌上铺着白桌布,沙发上搭着白纱巾,太阳从白纱窗帘里漏进来。那
人让我坐在沙发上,自己抽身走了。我像武松在牢房甲吃施恩家送的酒饭一样,且享受
了目前再说,就拿出书来孜孜细读。
我恰好读完一卷,那日本人进来了。我放下书站起身。他拿起我的书一看,笑说:
“杜甫的诗很好啊。”
我木然回答“很好”。
他拿出一份表格叫我填写,随后有人送来了墨水瓶和钢笔。我坐下当着这日本人填
写。填写完毕,不及再看一遍,日本人就收去了。他一面看,一面还敷衍说:“巴黎很
美啊。”
我说:“很美。”
他突然问:“谁介绍你认识李伯龙的?”(李伯龙是同茂剧团的头头)
我说:“没人介绍,他自己找到我家来的。他要我的剧本。”(这是实情)
“现在还和他们来往吗?”
“我现在不写剧本,他们谁还来理我呢。”
忽然那“高丽棒子”闯进来,指着我说:
“为什么你家人说你不在家?”
“我不是去买鸡蛋了吗?”
“说你在苏州。”
“是吗?找父亲刚去世,我是到苏州去了一趟,不过早回来了。”
“可是他们说你在苏州。”
“他们撒谎。”
“高丽棒子”厉声喝问,“为什么撒谎?”
我说:“害怕呗。”
日本人说:“以后我们还会来找你。”
我说:“我总归在家——除非我出去买东西。我家没有佣人。”
“高丽棒子”问“为什么不用佣人?”
我简单说:“用不起。”
我事后知道,他们找的是另一人,以为“杨绛”是他的化名。传我是误传,所以没
什么要审问的,他们只强调以后还要来找我。我说我反正在家,尽管再来找。审讯就完
毕了。日本人很客气地把我送到大门口。我回到家里,正好吃饭。

朋友间谈起这件事,都说我运气好。据说有一位女演员未经审问,进门就挨了两个
大耳光。有人一边受审问,一边奉命双手举着个凳子不停地满地走。李健吾先生释放后
讲起他经受的种种酷刑,他说,他最受不了的是“灌水”:先请他吃奶油蛋糕,吃饱以
后,就把自来水开足龙头,对着他嘴里灌水,直灌到七窍流水,昏厥过去。我说,大概
我碰到的是个很客气的日本人,他叫荻原大旭。
李先生瞪着眼说:“获原大旭?他!客气!灌我水的,就是他!”

                       一九八八年八月
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by dangao41 | 2010-07-30 09:14 | 楊絳 | Comments(0)