养花 老舍散文

  我爱花,所以也爱养花。我可还没成为养花专家,因为没有工夫去作研究与试验。我只把养花当做生活中的一种乐趣,花开得大小好坏都不计较,只要开花,我就高兴。在我的小院中,到夏天,满是花草,小猫儿们只好上房去玩耍,地上没有它们的运动场。

 私は花が好きで、花を育てるのも好です。色々考えたり試したりする時間はないのでエキスパートになれる筈もなく、ただ暮らしの中の趣味としての園芸ですが、花の大小や良し悪しに係わらず花が咲きさえすれば嬉しいのです。夏になれば家の小さな庭は草花でいっぱいになります。地面には猫たちの運動場はなくなるので、彼らは屋根に上って遊ぶしかありません。

  花虽多,但无奇花异草。珍贵的花草不易养活,看着一棵好花生病欲死是件难过的事。我不愿时时落泪。北京的气候,对养花来说,不算很好。冬天冷,春天多风,夏天不是干旱就是大雨倾盆;秋天最好,可是忽然会闹霜冻。在这种气候里,想把南方的好花养活,我还没有那么大的本事。因此,我只养些好种易活、自己会奋斗的花草。

 数は多いですが普通の花たちです。珍しい草花は育てにくいし、元気だった花が病気になって枯れようとしているのを見るのは辛い事です。涙はこぼしたくありませんからね。北京の気候は花にとって良いとはいえません。冬は寒く、春は風が強く、夏は日照りでなければ土砂降りです。秋は最も良いですが、突然に霜がおりたりします。このような気候では南方の花を育てようと思ったとしても、私にはそんな腕はありません。ですから手入れが楽で、自分で頑張れる植物を育てています。

不过,尽管花草自己会奋斗,我若置之不理,任其自生自灭,它们多数还是会死了的。我得天天照管它们,像好朋友似的关切它们。一来二去,我摸着一些门道:有的喜阴,就别放在太阳地里,有的喜干,就别多浇水。这是个乐趣,摸住门道,花草养活了,而且三年五载老活着、开花,多么有意思呀!不是乱吹,这就是知识呀!多得些知识,一定不是坏事。
 
 ただ、いくら花が自分で努力するとはいえ、もしかまわずに放っておいて自然のままにしていたら、花の多くは枯れてしまうでしょう。毎日毎日、友のように彼らに気配りをしなければなりません。おいおいに、やり方が掴めるようになりました。或る物は日陰を好みます、お日様の当たる所に置いてはいけません。或る物は湿り気を嫌います、たっぷり水やりをしてはいけません。こつを掴んで植物を育てるのです、しかも4年も5年もずっと世話をして花が開く、なんと味わいの深いことでしょう!本当ですよ、これこそが知識です!多くの知識を得ることは悪い事ではありますまい。
 
我不是有腿病吗,不但不利于行,也不利于久坐。我不知道花草们受我的照顾,感谢我不感谢;我可得感谢它们。在我工作的时候,我总是写了几十个字,就到院中去看看,浇浇这棵,搬搬那盆,然后回到屋中再写一点,然后再出去,如此循环,把脑力劳动与体力劳动结合到一起,有益身心,胜于吃药。要是赶上狂风暴雨或天气突变哪,就得全家动员,抢救花草,十分紧张。几百盆花,都要很快地抢到屋里去,使人腰酸腿疼,热汗直流。第二天,天气好转,又得把花儿都搬出去,就又一次腰酸腿疼,热汗直流。可是,这多么有意思呀!不劳动,连棵花儿也养不活,这难道不是真理么?

 私は脚が悪くて歩くのが大変なだけでなく長い時間座ってもいられないのです。花たちが私の世話を受けて、感謝したりしているかどうかは分かりません。が、私は彼らに感謝しています。仕事をしている時、いつも数十字書くともう、庭を見に出て水をやったり鉢を動かしたりしてから部屋に戻り、またすこし書くのです。それから再び出て行って、と繰り返します。頭脳労働と肉体労働を結びつければ心身に良く、薬にも勝ります。もしも荒れ狂う雨風や天気の急変などに出くわせば、家族全員が草花を助けるのに忙しい思いをします。数百の鉢を急いで室内に運ばなければなりません。腰も足も痛くなり滝の汗を流します。翌日、天気が良くなれば又全部の鉢を運びだし、またも足腰の痛みと滝の汗です。けれど何と意味のあることでしょう!労働なしでは草花でさえ育てられないのです、これを真理でないとでもおっしゃいますか?

送牛奶的同志,进门就夸“好香”!这使我们全家都感到骄傲。赶到昙花开放的时候,约几位朋友来看看,更有秉烛夜游的神气——昙花总在夜里放蕊。花儿分根了,一棵分为数棵,就赠给朋友们一些;看着友人拿走自己的劳动果实,心里自然特别喜欢。

 牛乳を届けてくれる人は門を入って来るなり「いい匂いですね」!と褒めてくれます。これには家中の者が鼻を高くします。月下美人の花開く時期には友達を招き、ろうそくを手に暮夜の花見と洒落ます------月下美人は夜に花のしべを開くのです。根分けをすれば一株が数株になりますから、友達に贈ります。友が私の労働の成果を持ち帰るのを見れば、おのずと心楽しくなります。

当然,也有伤心的时候,今年夏天就有这么一回。三百菊秧还在地上(没到移入盆中的时候),下了暴雨。邻家的墙倒了下来,菊秧被砸死者约三十多种,一百多棵!全家都几天没有笑容!

 もちろん、悲しい時もあります。今年もそんな事がありました。3百株もの菊の苗がまだ地にあった時(鉢に移植していなかった時期)、豪雨となりました。隣家の壁が倒れて三十種余り、百株以上の菊の苗が潰されてしまいました!数日は家の中に笑顔がありませんでした。

有喜有忧,有笑有泪,有花有实,有香有色,既须劳动,又长见识,这就是养花的乐趣。

 喜びと憂いがあり、笑いと涙があり、花と果実があり、香りと彩りがある。労働が必要でもあり、見聞も広くなる、これこそが花を育てる楽しみなのです。

(选自1956年10月12日《文汇报》)
[PR]
by dangao41 | 2016-04-28 17:00 | Comments(19)

四声歌

xué hǎo shēng yùn biàn sì shēng , yīn yáng shǎng qù yào fēn míng
学好声韵辨四声,阴阳上去要分明。
bù wèi fāng fǎ xū zhǎo zhǔn , kāi qí hé cuō shǔ kǒu xíng
部位方法须找准,开齐合撮属口形。
shuāng chún bān bào bì bǎi bō , dǐ shé dāng dì dòu diǎn dīng
双唇班报必百波,抵舌当地斗点丁。
shé gēn gāo gǒu gōng gēng gù , shé miàn jī jié jiāo jiān jīng
舌根高狗工耕故,舌面机结教尖精。
qiào shé zhǔ zhēng zhēn zhì zhào , píng shé zī zé zǎo zài zēng
翘舌主争真志照,平舌资责早再增。
cā yīn fā fān fēi fēn fù , sòng qì chá chái chǎn chè chēng
擦音发翻飞分副,送气茶柴产彻称。
hé kǒu hū wǔ kū hú gǔ , kāi kǒu hé pō gē ān zhēng
合口呼舞枯湖古,开口河坡歌安争。
zuǐ cuō xū xué xún xú jù , qí chǐ yī yōu yáo yè yīng
嘴撮虚学寻徐剧,齐齿衣优摇夜英。
qián bí ēn yīn yān wān wěn , hòu bí áng yíng zhōng yōng shēng
前鼻恩因烟弯稳,后鼻昂迎中拥生。
yǎo jǐn zì tóu guī zì wěi , yīn yáng shǎng qù jì biàn shēng
咬紧字头归字尾,阴阳上去记变声。
xún xù jiàn jìn jiān chí liàn , bù nán dá dào chún hé qīng
循序渐进坚持练,不难达到纯</s>和清。</s>
[PR]
by dangao41 | 2014-05-30 15:12 | Comments(0)

 这本自传是献给我的爹爹妈妈的。从我幼年时起,就一直受着我妈妈刘郭文昭的教育。她教育我要成为一个能服务于人民与国家的人。能使生命有意义,无论我是快乐或忧愁,舒适或困难中,无论什么情况来到我的生命里,我都应该把它当成是铸成我人格和意志的锻炼。只有这一条路我才能够活出来,成为一个有用的人。她的话给了我能够充实地生活的动力。

この自伝を両親に捧げる。私は幼い時からずっと母、刘郭文昭の教えを受けて育った。母は私を人のため国家のために奉仕できる人となれと教育した。人生が意味あるものになるよう、快なる時も鬱なる時も、順調であれ困難であれ、いかなる状況もそれを人格と意志を鍛錬してくれるものしなさい。それだけが有用な人間を形成する道筋である、と。母の教えは私が充実した人生を送るためのモチベーションとなった。

 我的爹爹刘建民,是他教育了我,认识了民主是什么?他告诉我,要自己训练自己成为一个民主时代的公民,而不是封建政治下的产物。

民主とは何かを私に教えたのは父の劉建民である。自己を鍛えて民主的な公民になれ、封建的な人間にはなるなと父は言った。

                   第一章 我的儿童时代

 我是个坏姑娘,狡猾又暴躁。我生于公元1912年1月3日。那时,孙中山博士领导革命推翻了中国几千年的封建专制和对女人的压迫。我的父母都相信男女平等,他们都强烈地相信这个观念。平常一个女人的名字,多半是“花、玉、美丽”等等。但是,我一生下来,父亲就给我起了一个男人的名字:德伟。我母亲写了一首长诗,在诗中,她希望有一天我能为中国做出伟大的事业。

私はお転婆で、 狡賢く怒りっぽい子供だった。生まれたのは1912年1月3日。それは、孫中山博士の指導する革命が、中国数千年にわたる封建制度と女性への抑圧を覆えした時期である。両親は男女平等を道理とし、その思想を熱烈に尊重した。女性の名には「花」「玉」「美」などを使うのが一般であったが、父は私に徳偉と男名前をつけた、。母は長詩を作り、その中でいつの日か私が国のために偉大な事業を成すよう願う、と詠んだ。

 我记得四岁的时候,有一天早晨,在父亲办公室的窗前,一个佣人称呼我“大小姐”。父亲在房间里听到了,就大声喊着说:“叫她三少爷!”从那时起,我就是“三少爷”,打扮成男孩子。

4歳の時のある朝の事を私はまだ覚えている。仕事場の窓の前で使用人が私を「大きいお嬢さん」と呼ぶのを室内で聞いた父は、大声で言った。「三坊っちゃんと言いなさい!」その時から私は「三坊っちゃん」となり男の子の服を着た。

 因为父亲宠爱我胜过我的两个哥哥,我就变得傲慢,并且欺侮两个哥哥。我的大哥比我大五岁,我不敢打他,但是我经常做一些使他不愉快的事情,使我自己觉得比他高傲。母亲总是叫他让着我。她说:“一个女孩子只是一位客人,‘女长一十八,铜锣一响别人家’,她在这个家庭的时间是很短暂的。”有一天,大哥忍无可忍,对我无可奈何,他以天真的儿童的表情说:“妈,别的客人都很懂得礼貌和客气,为什么我这个妹妹客人总是这么不客气。”

父は私を二人の兄より可愛がったので、私は傲慢になり兄たちを馬鹿にした。長兄は5歳年上だったから打ったりはできなかったが、しょっちゅう兄を不愉快にさせる事をしては自分の方が偉いと思っていた。母はいつも兄が譲るように言っていた。「女の子はお客さんなの、大きくなったら銅鑼を鳴らしてお嫁に行くの。女の子が家にいる時間は短いのよ。」 ある日、兄は我慢も限界となり、といって私に対してなすすべもなく、あどけない表情で言った、「お母さん、他のお客さんはみんな礼儀正しいのに、どうしてお客のこの妹はこんなにも無作法なの?」

 至于我的二哥,我总是对他恶作剧,我不怕与他打架,因为他只比我大一岁。我记得有一天早晨,我发现没有大人在我们身边,我就把他推到门后面抵在墙上,一只手用门压着他,另一只手去捶打他的肩膀。我明知我的姑姑在洗澡,不能出来,却大声鬼喊:“你们来看,二哥在打我。”姑姑心知肚明,是我在欺侮我的二哥,知道我是个惹祸者,而二哥是个好孩子,就在洗澡间里大声喝叫他:“好孩子,你打回去,不要害怕。”但是二哥天性温和,从来不打我。

次兄はといえば、私はいつも悪ふざけをしてやった。兄を打つのも恐れなかった、たった一歳しか上ではなかったからだ。ある朝の事を覚えている。周りに誰も大人がいないのに気付いた私は門の後の壁に兄を突いていき、片方の手で兄を門に挟んで押さえ、もう片方の手で彼の肩をたたいた。伯母は浴室にいて出て来られないのが分かっていたから、尤もらしく叫んだ。「来て、お兄さんがぶつの。」 私が兄をいじめているのを伯母は良く分かっていた。私が厄介のもとであって、次兄は良い子だと知っていたから、浴室から大声で兄に言った 「あなたは悪くないわ、ぶち返しなさい、大丈夫だから。」 けれど次兄は温和な性質で私を叩いたことなどなかった。

 当我们都是十几岁的时候,二哥在数学方面的成绩特别优异,我在这方面就特别差,常常在期末考试中数学不及格,而必须在下学期开学前补考,如果补考不及格就要留级。所以,在寒暑假中,我不得不温习数学。

私たちが十代の頃、次兄の数学の成績は特別に優秀であった。私はといえば特別に出来なくて期末試験の数学を落とし、次学期前に追試の必要があった。もし合格しなければ留年となる。そこで冬休み・夏休みには、数学を復習しなければならなかった。

 当二哥辅导我时,他总是很耐心。有的时候,我不听他讲课,玩一些小东西。有一次,我的动作使他太生气了,他罢课!我就赶快冲到母面前说:“妈妈您看,二哥太坏了,他是在糟踏您的钱,他太懒了,他不愿意教我了,他要玩!”其实,我二哥对所有的弟弟和妹妹,都是慈如母,在辅导我们的功课与作业时,又都是严如父。我们这些弟弟妹妹,包括我这个“坏蛋”,都是终身敬爱他的。

次兄が私を教える時はいつもとても辛抱強かった。けれど時に私は兄の教えるのを聞かないで手悪戯をしていた。一度、私の態度に彼は怒ってしまい授業を止めた事があった。私はすぐに母のところに飛んでで行き言い付けた。「お母さん、お兄さんたらいけないのよ。お母さんのお金を無駄にして怠けるの。私を教えたくないの、遊びたいんだわ!」 実を言えば次兄は弟妹全てに対して慈母のようであったが、勉強を教える時は厳父のようであったのだ。私たち弟妹は、”ワル”の私も含めて、みな兄を生涯敬愛した。

 父亲希望他所有的孩子都能接受大学教育,但是,他的经济力量不够,因为他已经把大部分的钱用来培养他年轻的弟弟和妹妹们上学。我的叔父主动拿出钱来支持我大哥和二哥去读名牌大学(同济与清华),一个学医,一个学土木工程。我这位叔父曾经在袁世凯称帝时,发表过抨击文章,反对他称帝,结果遭到通缉,要捉起来杀头。是我母亲拿出了她陪嫁的八十片金叶,资助了我叔父,让他连夜逃出关外,去了东三省避难 (后来在那边成家立业了),才算躲过了死刑。所以,后来叔父资助大哥二哥去读大学,可以说是对我母亲的报答。

父は子供たち全員が大学教育を受ける事を望んだが、経済的には無理があった。父の弟妹の教育に既にかなりのお金を使ってしまっていたからだった。そこで叔父が学費を出してくれて長兄と次兄は有名大学(同済と精華)に学び、一人は医学、一人は工学を修めた。この叔父はかって袁世凱が皇帝と称した時、批判文を発表し指名手配となった。捕まれば死刑である。母は持参金であった金80枚を出して叔父を助けた、すぐにその地を離れさせた。叔父は東三省(後にその地で所帯を持って事業を起こした)に逃れて死罪をかわしたのだった。だから、叔父が長兄と次兄を援助し大学で学ばせたのは母に対する応報であった。

 我们几个弟妹们,通过了高考,也都进入了名牌大学。二哥刚刚从清华毕业,就承担了三妹(刘德傅)在湖南长沙湘雅医学院读书的全部学费。大哥从同济毕业后,也资助三弟(刘笃)读云南昆明西南联合大学。

私たち弟妹もみな資格試験に合格して名門大学に進学した。次兄は精華大学を卒業したばかりであったが、三番目の妹(劉徳傅)の長沙湘雅医学院での学費を全額負担した。長兄も同済大学を卒業後、やはり三男の弟(劉篤)が雲南昆明西南総合大学で学ぶのを援助した。

 我是靠武汉圣公会贫寒大学生助学金贷款,才读完了北平燕京大学英国文学系的。二哥当时还资助了一位我们的堂妹(刘德秀)和一位我们的堂弟(刘德馨,他是一个孤儿),分别完成了高等教育和中等教育。这是我的父母亲以他们自己的行为作为榜样,对我们这些子女们爱的教育的结果。母亲说过,无论是对自己的亲兄弟姐妹,或堂兄弟、表兄弟,都要一样地以爱相待,彼此互助互爱。

貧しい大学生向けの武漢聖公会奨学金を得て、私は北平燕京大学でイギリス文学を学ぶ事ができた。次兄は当時まだ、従妹(劉徳秀)と従弟(孤児であった劉徳声)を、其々高等教育と中等教育を終了させようと援助していた。私たちの両親が自らの行いを持って手本とし、私たちに与えた愛の教育の結果である。自分の兄弟であろうが、いとこ達であろうが、同じく愛情を持って相対し、お互いに助け合い心に掛けるように、と母は説いた。

 我五岁进了家庭的私塾。我还记得,当时我穿着一件月白色的长衫。我不要母亲送我上私塾,而是独自一人穿过了一条 黑暗的小巷,走进了学校。自己介绍了自己,非常大方自信 地走到了孔夫子的像前,三跪九叩首,又转向先生,向他叩头。叩。这个时候,私塾先生向我出题进行考试。他出“红花”,我马上对“绿叶”;他又说“高山”,我马上对“流水”;他又说“美女”,我又对“英雄”;他又出“暮鼓”,我对“晨钟”。对完以后,先生非常高兴。他问我这些是从哪里学的,我告诉他,是从我母亲讲的故事中学来的。他以为我很聪明,但是不久他就失望了。

私は5歳で家庭の塾に入った。まだ覚えているが淡い水色の長上着を着て、母の付き添いを断って一人でうす暗い路地を通り建物へ入って行った。自分の名前を言い、臆すことなく孔子像の前で三拝九拝をして、次に向きを変え、先生に対して叩頭した。その時に、先生は私に問題を出して試験とした。先生が「紅花」と言い、私すぐに下の句を「緑葉」と合わせた。「高山」に対して「流水」と、「美女」には「英雄」、[夕鼓」に「朝鐘」と対句を答えた。先生は非常に喜んでどこで学んだのかと問い、私は母がしてくれたお話の中にあった、と答えた。先生は私をたいそう賢いと思ったのだが、程なく彼は失望を味わう事になった。

 一天下午放学了,我和哥哥们吵了一架,之后,气冲冲地冲到教室里去,为了泄愤,我用剪刀,剪去了两个哥哥写字用的毛笔尖,把它们丢在地下。我的这些行为都被先生看在了眼里。先生是一位六十多岁的老人,当年,他穿着蓝色的长袍,腰系黄色的宽腰带,腰带上还挂着烟袋与他的眼镜盒。他分明看到了我这些泄愤的行为,但他却并不制止,只是一边在教室里踱来踱去,一边摇头,一边在嘴里念叨:“泼妇呀泼妇呀。泼妇之婆,害群之马。”从这个时候开始我就瞧不起他了,觉得他是一个无用的老头。我就继续剪去所有毛笔的笔尖,泄我心头的恶气。

ある午後,、授業が終わってから私は兄たちと喧嘩した。それで怒り狂って教室に行き、腹いせに二人の兄の筆の穂先を鋏で切って床にばら撒いた。私のこの行為は先生の眼の前での事だった。先生は六十過ぎのご老人で、その頃は青いチーパオに黄色の幅広帯を締めて、帯には煙管と眼鏡のケースを下げていた。彼はあきらかに私のうっぷん晴らしを見ていたのに、止めようともしないで教室を行ったり来たりして、頭を振りながら呟いていた。「じゃじゃ馬だじゃじゃ馬だ。手に負えない子だ、皆に害を及ぼす。」 この時から私は先生を役にも立たない年寄りだと見くびるようになった。そして全部の筆の毛先を切り取り続け、憂さを晴らしていた。

 我最初读的书叫《三字经》,它是用三个字一句写成的书。它是每一个启蒙的学生都必须读的,包括天文、地理、人伦、哲学、历史等等内容。每天早晨先生教几句,我就要立即背得出;下午要学写大楷、小楷,晚上要背诵古诗。

最初に読んだのは「三字経」というもので、三字で一句なるように書かれた本だった。小学生の必読書で、内容に天文、地理、人論、哲学、歴史などを含んでいた。毎朝、先生に数句を習い、すぐに暗唱し、午後には大文字小文字で習字を練習し、夜は古詩を諳んじた。

 在那些日子里,学生们都要用一种单纯的音调去背诵课文,所以教室里充满了单纯得像唱歌一般的声音。我也跟着他们背诵,但是我背诵的不是课文,而是随心所欲的遐想。我二哥和我坐在同一张方桌的同一个犄角的相邻的座位上。我在桌子底下,抓住他的一根手指,一边用一块竹片来回地锯他的手指,一边口里用背诵课文的音调唱着:“杀猪!杀猪!”不料,他一会儿就大哭起来,原来他的手指已被割破,流出了鲜血。

その頃は、生徒は一種平坦な音調で教科書を諳んじなければならなかった。だから教室内は単純な歌のような声で満ちていた。私もみなと一緒に暗唱したが、それは教科書の文ではなく、気ままな思いつきのものだった。次兄と私は同じ机の隅っこに並んで座っていた。私は机の下で兄の指を掴み竹べらを当てて鋸のように引きながら、教科書の暗唱のリズムに合わせて「ブタを殺せ、ブタを殺せ!」と唱えていた。私の予期せぬことに、兄は大きな声で泣きだした。兄の指は切れて血が出ていたのだった。

我看见了血,就知道大祸临头了。我心想,千计万计,走为上计。我想躲到父亲衙门旁一座荒芜的园子那里去。我站起来,向着教室的边门跑去。但是我没有想到,我叔叔(我父亲的三弟)的书桌正在那个边门的旁边。他一贯站在我哥哥们的一边,最恨我。他从后面一把就抓住我的衣服,提了起来,我的手脚在空中乱舞,就像渔夫抓了只螃蟹。他把我从教室里拉出来,扔到我母亲卧房的床上,把我押到我母亲面前,说:“嫂子,你揍她一顿!”我趴在床上回头一看,母亲正在寻找她平时体罚孩子用的一块木板。我当时还是想“逃为上计”,就溜下床来,向门口冲去,又一次被把着门的叔叔捉住。他抓住我的辫子,又把我扔在了床上。我挨了母亲的一次狠打,她打我的屁股。我受到这次惩罚,使全家人从心里感到痛快,除了父亲。

血を見たとたん大変な事になったと思った。何としても逃げるが上策。父の仕事部屋近くの荒れた庭に隠れよう。立ち上がり教室の通用口へ駆けだした。けれど叔父(父の3番目の弟)の机がまさにその脇にあった事には考えが及ばなかった。叔父はいつも兄たちの味方であって私を咎めていた。叔父は後ろから私をつかまえて教室から引きずり出し、母の部屋の寝台に放り投げ、母の前に私を突き出して言った。「姉さん、お仕置きしてください!」 伏したまま顔をあげると、母はふだん子供を叩くときに使う木の板を手にするところだった。その時の私はまだ「逃げるが上策」と思っていたのと寝台からすべり下りて戸口に突進したが、またもや叔父に捕まった。私はお下げを掴まれて再び寝台に放り出され、母にお尻を強くひっぱたかれた。この私への懲罰には家じゅうの人が溜飲を下げた。父以外は、であるが。

母亲开始看出进行道德教育的紧迫性,她用讲故事的方法教育我们这些孩子。她讲的故事都是关于历史上伟大的人物的,他们的伟大是基于从幼年时开始的对人格的培养。每天晚上,诗词课的练习与写日记是饭后的课程。先生认为,诗词与齐家治国无关,没有经典的沉重,是轻松的,它的美感与音乐感是与黄昏的那种美感融在一起的。所以,他把诗词课的练习放在晚饭后,一直上到晚上8点。

母は早急な道徳教育が必要と見てとり、物語を使う方法でそれを始めた。みな歴史上の偉大な人物の物語であり、彼らの偉大さは幼年期に開始された全人教育に基づいていたのだった。毎晩、詩句の練習と日記が食後の勉強であった。先生は、詩句は家や国を治めるに無関係で経典ほどの重要さはないく軽いものと考えていた。そしてその美と音楽性は黄昏時の美しさと調和する、と。そこで先生は詩句の勉強を夕食後から8時までとしたのだった。

每当我想到母亲讲故事,两个熟悉的能带给我心灵一种甜蜜而温馨的情景,立即浮现在我的记忆中:一个是夏日的晚上,一个是冬天的夜晚。

母のしてくれた物語を想いだすたびに、ふたつ情景が即座に心に浮かび私の心を甘やかに暖かくする。一つは夏の晩のこと、一つは冬の晩のこと。

夏日的晚上,一个大宅门的天井出现在我的幻觉之中。这个天井是用白色的石板铺起来的,走廊围在它的周围。天井中间有一个绿色的大缸,缸体布满美丽的雕塑,缸内有红色的金鱼在绿色的水草中游动。很多很美丽的花盆安排在缸的周围,它们又美又香,而且各种颜色都有。晚风轻轻地把香气吹送到在天井中乘凉的人们的身上。走廊的尽头是母亲喜欢的地方,它通向亲戚们住的另一处房屋与天井。那里的穿堂风非常凉快。她时常坐在一张竹制的躺椅上,让风吹散她乌黑发亮的头发。在月光下,她显得非常美。每当风停下来的时候,她就用一把很大的蒲扇,去扇自己的头发。我们小孩子就喜欢围着她,求她讲故事。

夏の晩はというと、屋敷の中庭が目にに浮かぶ。中庭は白い石で出来ていて廊下がその周りを囲んでいた。真ん中に緑色の大きな甕が置かれ、甕には美しい彫刻が施され、中は赤い金魚が緑の水草の中を泳いでいる。たくさんの綺麗な花の植木鉢が甕の周りに置かれていた。美しく香り良く色とりどりであった。夜風はそっとその芳香を中庭で涼んでいる私たちに送る。廊下の突きあたりは母の好きな場所で、親戚の住まいと中庭に通じていた。其処に抜ける風はたいそう爽やかであった。母は竹の寝椅子に座り、風が母の黒く艶々した髪をなびかせる。月明かりのした、とても綺麗だった。風がないときは大きなシュロの扇で髪をあおいだ。私たちは嬉々として母を囲みお話をせがんだ。

冬天夜晚的情景完全不同。那是在室内。房门口挂着很厚的棉帘,帘子上的刺绣辉煌而灿烂。在房屋的中间,有一个很大的铜盆放在一个几乎贴着地面的雕刻精美的木架上面,里面烧着一盆通红的炭火。离那盆火不远的地方,就是我们围着母亲听她讲故事的地方。她的声调,面部的表情,词汇的选择,留给我很深的印象。讲故事是她用来教育我们和塑造我们性格的一种方法。当时,我们只感到好玩有趣,一点也没有意识到被她的言词和那种意境所感动。

冬の夜の情景は全く違っている。それは部屋の中。戸には厚いカーテンが掛けられ、カーテンは綺羅やかな刺繍が施してある。部屋の中心には大きな銅鉢は、表面に精巧な彫刻を施した殆ど地面と変わらない低い板に置かれ、中には明々と熾った炭火。その傍で、私たちは母にお話をしてもらったのだった。母の声、表情、言葉は深く心に残っている。母は物語を用いて私たちの性格を形成したのであった。当時、私たちはただ楽しんでいただけであって、物語やその境地に影響を受けていたとは全く感じていなかった。

母亲讲过的孔融让梨的故事,使我深深地受到了感动。有一年,我们住在一个小县城里,一位亲戚送了母亲一些干贝,这东西在当时是很稀少贵重的。我母亲就把它装在一个篮子里,挂在很高的地方。我们都很想吃,大哥就去偷,用一张桌子,加上一把椅子,爬上去,一把一把地从篮子里抓出来,往下面扔,我和二哥就站在下边用衣服来接着。我们几个大吃特吃,觉得特别好吃。这样偷吃了几次以后,终于被母亲发现,篮子里的干贝被人偷吃了,几乎没有多少了。她就审问大哥,因为在几个孩子中,他是最大的。母亲正准备打大哥的时候,二哥突然跑了上去,抱住了大哥,哭着对母亲说:“是我偷吃了,不是他,打我。”这时候,我也冲上去抱着二哥说:“妈,是我,不是他们,打我!”母亲终于被我们几个人感动了,放下了板子,谁也不打了。

母が語ってくれた中の孔融が梨を譲った話は私を深く感動させた。ある年のこと、私たちは小さな町に住んでいたのだが、親戚が、当時は大変貴重な物だった干し貝を送ってくれた。母はそれを籠に入れて高いところに吊るした。子供土地は食べたくて、長兄がこっそり取りにいった。テーブルに椅子を乗せて上り、一つかみづつ取っては下に投げた。私と次兄は下に立って広げた服に受けた。私たちは存分に食べ、飛びきり美味しいと思った。この盗み食いは何回かすると、とうとう母に見つかった。籠の干し貝は食べられて殆ど残っていなかったのだ。母はすぐさま長兄を問いただした。子供の内で一番大きかったからだ。母がまさに彼を叩こうとしたその時、次兄は急いで走り寄り、長兄を庇って泣きながら母に言った「僕が取ったのです、兄さんではありません。僕を叩いてください。」 この時には私も次兄を庇いながら言った、「お母さん、私なの。兄さんたちではありません。私をぶってください。」 母は心を動かされ仕置き板を置き、誰も打つことはなかった。

还有个故事是关于我的外祖父的。他与我们曾经一起生活了好几年,是一位很慈祥的佛教徒。他年轻的时候,有一次,在乡间的一个夜晚,他与佣人一起从外面回家,佣人手提一盏西瓜形的纸灯笼。当他们来到自家大门口时,外祖父看到两个佃农,从他家中扛出两桶菜油。这时候,外祖父立刻吩咐佣人把灯吹灭,躲在一边,让那两个偷东西的佃农从身边走过去。事后佣人问他:“少爷,你为什么不连人带赃一起把他们抓起来?”他就说:“年关接近,他们一定是缺少食油,而我家里食油又够多的了。没有人会喜欢偷东西,他们俩一定是家庭负担过重。他们都是勤劳老实的农民,这个错在我!今天晚上我取得了一个教训。以后我知道了,在年关前,我应该多关怀佃农们的生活情况。我们吹灭了灯笼,好像没有发生任何事情一样,是为了不使他们尴尬,才能使我们之间的关系自然平稳地继续下去。

中には父方の祖父の物語もあった。祖父とは何年も一緒に暮らした事があったが、慈愛深い仏教徒だった。若いころ郷にいた時のある夜、祖父使用人と共に外出から帰るとき、使用人は楕円形の提灯を提げていた。家の門まで来た時、祖父は二人の小作人が家から二桶の菜種油を担ぎ出てくるのを見た。祖父はすぐに火を消させ身を隠し、盗人の小作人をやり過ごした。使用人が 「若旦那さま、どうして盗っ人を品物もろともを押さえないんですか?」と聞くと、こう答えたという。「もうじき年も暮れる、油がないに違いない。家はといえばたくさんあるではないか。誰だって盗みなんてしたくないだろう、困っているのだよ。二人とも良く働く農夫だ。私がいけなかったんだ。今晩の事は良い教訓だ、師走には小作達の暮し向きに注意すべきだと分かったよ。提灯の火を消したから、何も起こらなかったも同様だ。彼らに気まり悪い思いはさせなかった、あの二人とこれからも穏やかにやっていけると云うものだ。

母亲在讲完这个故事以后,对我们总结说:“我们要从这里学习为别人着想,不要只考虑自己的需要和自己的地位。我们都是人,我们有同样的物质需求,不同的仅仅是,他们穷,我们富。在上天的眼睛里,我们并不比他们高尚。”

母は話し終わると「このお話から人を思いやる事を学べたでしょう、自分の欲や身分ばかり考えてはいけないの。私たちはみんな人間なのよ、必要な物は同じ、ただの違いは彼らは貧しくて私たちは富んでいると云うだけ。神様がご覧になったら、私たちの方が立派だなんて事はないの。」 と締め括った。

母亲讲的故事中间,也有好些是西方的故事,其中有一个故事讲的就是美国第一任总统华盛顿。当他还是一个小孩子的时候,就能很诚实地承认自家花园里的樱桃树是他砍的,避免了佣人和农奴们受到冤枉。从那以后,哥哥和我,深深地记住了母亲的话:一个真正的人,要有智慧认识自己的错,要有勇气承担自己的错,要有毅力来改正自己的错。

続きの原文http://mjlsh.usc.cuhk.edu.hk/Book.aspx?cid=2&tid=2
[PR]
by dangao41 | 2012-02-13 09:24 | Comments(0)

一粒珍珠的故事 2

还有个故事是关于我的外祖父的。他与我们曾经一起生活了好几年,是一位很慈祥的佛教徒。他年轻的时候,有一次,在乡间的一个夜晚,他与佣人一起从外面回家,佣人手提一盏西瓜形的纸灯笼。当他们来到自家大门口时,外祖父看到两个佃农,从他家中扛出两桶菜油。这时候,外祖父立刻吩咐佣人把灯吹灭,躲在一边,让那两个偷东西的佃农从身边走过去。事后佣人问他:“少爷,你为什么不连人带赃一起把他们抓起来?”他就说:“年关接近,他们一定是缺少食油,而我家里食油又够多的了。没有人会喜欢偷东西,他们俩一定是家庭负担过重。他们都是勤劳老实的农民,这个错在我!今天晚上我取得了一个教训。以后我知道了,在年关前,我应该多关怀佃农们的生活情况。我们吹灭了灯笼,好像没有发生任何事情一样,是为了不使他们尴尬,才能使我们之间的关系自然平稳地继续下去。

中には父方の祖父の物語もあった。祖父とは何年も一緒に暮らした事があったが、慈愛深い仏教徒だった。若いころ郷にいた時のある夜、祖父使用人と共に外出から帰るとき、使用人は楕円形の提灯を提げていた。家の門まで来た時、祖父は二人の小作人が家から二桶の菜種油を担ぎ出てくるのを見た。祖父はすぐに火を消させ身を隠し、盗人の小作人をやり過ごした。使用人が 「若旦那さま、どうして盗っ人を品物もろともを押さえないんですか?」と聞くと、こう答えたという。「もうじき年も暮れる、油がないに違いない。家はといえばたくさんあるではないか。誰だって盗みなんてしたくないだろう、困っているのだよ。二人とも良く働く農夫だ。私がいけなかったんだ。今晩の事は良い教訓だ、師走には小作達の暮し向きに注意すべきだと分かったよ。提灯の火を消したから、何も起こらなかったも同様だ。彼らに気まり悪い思いはさせなかった、あの二人とこれからも穏やかにやっていけると云うものだ。



母亲在讲完这个故事以后,对我们总结说:“我们要从这里学习为别人着想,不要只考虑自己的需要和自己的地位。我们都是人,我们有同样的物质需求,不同的仅仅是,他们穷,我们富。在上天的眼睛里,我们并不比他们高尚。”

母は話し終わると「このお話から人を思いやる事を学べたでしょう、自分の欲や身分ばかり考えてはいけないの。私たちはみんな人間なのよ、必要な物は同じ、ただの違いは彼らは貧しくて私たちは富んでいると云うだけ。神様がご覧になったら、私たちの方が立派だなんて事はないの。」 と締め括った。

母亲讲的故事中间,也有好些是西方的故事,其中有一个故事讲的就是美国第一任总统华盛顿。当他还是一个小孩子的时候,就能很诚实地承认自家花园里的樱桃树是他砍的,避免了佣人和农奴们受到冤枉。从那以后,哥哥和我,深深地记住了母亲的话:一个真正的人,要有智慧认识自己的错,要有勇气承担自己的错,要有毅力来改正自己的错。

母がしてくれた話のなかには西洋の物もたくさんあって。その中の一つがアメリカの初代大統領ワシントンの物語だった。ワシントンはまだ小さな子供だったとき、庭の桜の木を切り倒したのは自分だと正直に認め、使用人や奴隷が濡れ衣を着せられないようにした。そのエピソードは私と兄の胸に深く刻まれた。まっとうな人間は自分の過ちを認める心を持たねばならない、勇気を持って過失の責任をとり、強い意志を以って己の間違いを正さねばならない、と。

母亲还讲过一个耶稣基督帮助门徒洗脚的故事。这个故事使我非常惭愧。我才开始知道,一个伟大的人是非常谦让的,那些骄慢的人,才是真正浅薄的。母亲带我去看了几次马戏,马戏中有一“丑角”。这个“丑角”一无所长,却自以为很能干,样样都自以为是。他很骄傲地对待别人,其实别人都在背后耻笑他。我开始怀疑我自己是否就像那个“丑角”。于是,偷偷地改变我自己对别人的骄慢与暴戾的行为,从此在待人接物方面,开始有所收敛。

またキリストが弟子の足を洗った話もしてくれた。この話は私は恥じ入った。偉大な人物は謙虚なのだ。傲慢な人間こそが浅薄なのだ。母に何度かサーカスに連れて行ってもらった事があるが、サーカスにはピエロがいた。このピエロは何もできないくせに、自分は何でもできる、自分は何でも正しい、と考えていた。彼はとても傲慢に人に対したが、その実、皆は影で彼を嘲笑った。私はこのピエロは自分ではないかと思い始めた。そこで、密かに人に対する自分の高慢で横暴な態度を改めることにし、この時から人と接し方においての自制が始まった。

我家的仆人,有三个都带着自己的孩子住在我们家。我对他们都很公平,从来不摆大小姐架子,也从不欺侮他们。现在想来,那时大约认为他们都是玩伴,都是与我平等的,与仆人不同。

家の三人の使用人はみな自分たちの子供も一緒に住みこんでいた。 私はその子たちを差別したりせず、お嬢様風を吹かしたりしなかったし、虐めたこともなかった。 今になって思えば、当時は多分彼らを遊び友達と認識していたので、みな私と同じと思っていたのだ、雇い人とおなじではなかった。 

每当父母亲分些食品给我,叫我分给孩子们一起吃的时候,我除了分给自己的哥哥、妹妹们以外,还很平等地分一份给他们每一个人。到现在为止,我自己也很奇怪,为什么那时我很小的年纪,就会有这种平等的思想。我的父亲就因为我有这种品行,所以特别喜欢我。

両親に食べ物をもらって皆で分けて食べなさいと言われ時、私はいつでも兄や妹たちだけでなく、使用人の子供たちにも同じように分けた。いま考えても、なぜあんなに小さかった時から平等の思考をもっていたのか、自分でも不思議に思う。父が格別に私を好んだのは、このような行為のためであった。

不知不觉地,母亲的故事改变了我天性中坏的素质。我记得母亲刚刚讲完《水浒》里面的故事,我们这些孩子都非常崇拜那一百零八个英雄。当我十岁的时候,我们全家定居武昌城里的一幢大宅院。
大宅院后面有一个花园,花园里有一个亭子,被大哥与二哥宣布为男孩子们的司令部,取名为“龙虎寨”。我不甘示弱,就将花园中间的假石山宣布为女孩子们的司令部,取名“凤凰山”。我们双方都挂出红旗,上写:“替天行道”,让它们随风飘扬。我们都以那面红旗为骄傲。但是在我们的环境中,并没有残暴的富人,也没有需要我们去保护的穷人与老百姓。所以我们双方定下,每周三的早晨是彼此武力比赛的时间。但是在这座大宅门里,比我大的姑娘们都是闺阁千金,比我小的姑娘又都是不能打架的人。只有一个保姆的女儿名叫富枝,和我一样都刚过十岁,是可以参加战斗的人。在龙虎寨方面,大哥和我的一个小舅舅,是头领,二哥和表哥是兵。在凤凰山这边,我举荐了两个秀气的大姑娘做头领,而我与富枝就是凤凰山的战将。根据中国传统的战斗规则,是兵与兵斗,将与将杀。这样一来,我们就把大哥与小舅他们俩架空了。他们那两个是男子汉,是绝对不敢找我们那两位金枝玉叶的小姐去打架的。而在们这边,兵对兵,我与富枝就可以去打二哥与表哥。富枝是一个农村小女孩,长得孔武有力,打二哥与表哥是绰绰有余的。况且我这位表哥还稍微有点瘸。经常是富枝应二哥的挑战,而我应表哥的挑战。但是有一天,富枝病了,二哥来喊战,我只得被迫应战。战斗中,二哥重重地一拳把我打倒在地,爬不起来,疼痛难忍,我竟然嚎啕大哭。妈妈在远处听到了,怒声发问:“你们在搞些什么?”我深怕母亲来了会打我的二哥,我就自己把嘴紧紧地捂上。这个时候,妈妈的故事,已经彻底地改变了我对哥哥们的态度。

知らず知らずに、母の物語は私の生まれ持った性質の悪い部分を変えていった。《 水滸伝 》の故事を母が話し終えたときのことを覚えているのだが、たちまち私たちは皆、その108人の英雄を崇め敬った。私が10歳の頃で、私たち一族は武昌の大きな屋敷に住んでいた。屋敷の後ろ側は庭園で東屋があった。長兄と次兄にその東屋を男子の司令部とする宣言されてしまった。東屋は「龍虎賽」とされた。私も負けじと、中間にあった築山を女子の司令部とし「鳳凰山」と命名した。双方とも赤い旗を掲げ、“替天行道”と記したその旗は風に翻り、どちらの陣もこの旗をとても誇らしく思った。ところが私たちの周りには、残虐な金持ちも、私たちが守るべき貧乏人も庶民もいないのである。そこで毎週水曜日の朝は庭で武力比べをする時間と決めた。けれど屋敷に住む娘たちで私より大きい者は深窓の令嬢であり、小さい者は戦うなどできはしない。たったひとり保母の娘で富枝というのが私と同じ10歳になったばかりで、戦闘に加われた。龍虎賽では長兄と年若い叔父が首領で、次兄と従兄が兵であった。鳳凰山はといえば、私は推挙して綺麗な二人のお嬢さまを首領にすえ、私と富枝が鳳凰山の兵士であった。中国の闘いの伝統に則れば、兵は兵と、将は将と戦うのだ。これで、私たちは長兄と叔父を名目だけのものとできた。男らしい男として彼らはこちらの陣のお嬢さん二人に闘いを挑んだりは決してできないのだ。そして兵と兵として、私と富枝は次兄・従兄と戦う事ができた。富枝は農村の娘で威風堂々と力強く、次兄と従兄とやりあっても余りあった。その上従兄は足を少し引きずって歩く。いつも富枝は次兄の相手をし、私は従兄と対した。ところがある日、富枝は病気になった。次兄が挑んできたので私は応戦せざるを得なかったのが、闘争中、手ひどい一撃をくらって打ち倒された。私は起き上がれず、痛みに耐えかねて思わず大声をあげ泣いてしまった。離れたところの母にも聞こえてしまい、 「あなたたち何をしているの?」 と怒られた。母がきて兄を叩くかもしれないと心配した私は口をしっかりと塞いだ。この頃には、母の故事が私の兄たちに対する態度を全く変えていたのだった。

在姐妹中,母亲比较爱我妹妹一些。因为她温顺,听母亲的话,从不问为什么。而我呢,总是要问一个“为什么”。假如母亲命令的理由不充分,我多半就不服从,而且要与母亲辩论。母亲为此向父亲抱怨,但父亲却觉得我这样做是对的。他认为,为人处世就应该这样,凡事都应该弄清为什么,然后再做。

姉妹のうち、母のお気に入りはどちらかというと妹であった。妹は素直でおとなしく母の言いつけをよくきいたからだ。私といえばいつでも「なぜ?」」と尋ねた。母の命じた理由に納得がいかなかったら、大かたは従わずに自分の考えを述べた。そのため母は父に文句を言ったが、父は私の態度は正しいと思っていた。父は、人と成り世を処すには私のようであるべきで、何事であれ得心してから行動すべし、と考えていたのだ。

在 学校 里 , 我 的 私 塾 先生 规定 我们 一定 要 一字 一 句 地 背诵 所 有的 课文 。 但是 我 只 肯 背诵 诗词 , 对 《 论语 》 、 《 孟子 》 、 《 大学 》 、 《 中庸 》 等 , 我 就 不肯 背诵 , 认为 只要 懂得 了 它们 的 意思 就 行 了 。 老师 认为 我 不肯 背书 是 不 听话 , 就要 罚 我 的 跪 , 我 就 偏 不 跪 , 老师 踢 我 的 腿 , 我 还是 不 跪 , 老师 就 把 我 整个 身子 拎 起来 朝 地下 一 掼 , 迫使 我 跪下 , 但是 我 仍然 倔强 地 站 了 起来 。 因为 我 认为 我 的 理由 是 正确 的 , 我 对 正确 的 事情 是 有 自信 的 。 我 深信 父亲 对 我 的 教育 : 凡事 只 要是 对 的 正确 的 , 就 应该 坚持 。

教室では、先生は教科書の文章を全て一字一句暗記することを要求した。けれど私は詩は暗唱したが、《 论语 》 、 《 孟子 》 、 《 大学 》 、 《 中庸 》 等はしなかった。意味が理解できればいいと考えていた。先生は私が暗記しないのは言いつけに背くことだとして、罰に跪かせようとした。私は意地でも跪かない。足を蹴られたが、それでも立っていた。先生は私の体を掴んで地面に押し倒ししゃがませようとしたが、私は頑として起き立上がった。私は自分が正しいと思っていたし、その正しさを確信もしていた。凡そ物事は筋が通っているならば正しい、ならば堅持すべし、という父の教えを私は堅く信じていたのだった。

当 哥哥 们 和 我 都 还 很 小 的时候 , 父亲 雇 了 一个 南拳 派 的 武术 教师 , 教 我们 拳术 。 我 母亲 不同意 我 参加 。 她 说 : “ 女孩子 学 了 拳术 有 什么 用 ? ” 父亲 以 他 一贯 的 幽默 叫 着 说 : “ 哦 , 非常 必要 ! 当 她 丈夫 不 听话 的时候 , 她 可以 一 脚 把 他 踢 到 大 门外 。 ” 边 说 边 做出 那个 踢 的 姿 式 , 大家 都 笑 了 。 从此 , 我 就 和 哥哥 们 一起 学 拳术 了 。 那年 我 六 岁 。 武术 中 除了 拳术 外 , 还有 兵器 棍 、 鞭 、 刀 、 剑 、 矛 等等 。 但是 , 我 只 学 了 拳术 以及 棍 术 , 后面 的 我 就 没有 学 了 。

兄たちや私がまだ小さかった頃、父は南拳流武術の先生を頼んで拳術を習わせた。母は私が加わるのに反対した。「女の子が拳術など習ってどうしますか?」 父は彼一流のユーモアを以って言った。「おお、役にたつとも!夫が言う事を聞かないときは一蹴りして外に放り出せるさ。」 と言いながら蹴る真似をして見せたので皆大笑いした。そこで私も兄たちと一緒に拳術を学べることになったのだった。6歳の時である。武道は拳術の他に、棍棒、鞭、刀、剣、矛などがあった。けれど私は拳術と棍術だけで、後のものはやっていない。

我 在 那个 时候 学 的 这 一点 拳术 , 还 帮助 过 我 。 “ 文化大革命 ” 中 , 当 一个 红卫兵 前来 揪 斗 我 的时候 , 用 他 的 左手 揪 住 我 的 左手 , 企图 把 我 反 转 过来 , 我 利用 幼年 时 学 的 一点 拳术 马上 反 转身 来 , 先 用 我 的 右 掌 抓住 他 的 右 肩 , 然后 , 迅速 以 我 的 前 肘 , 封住 了 他 的 咽喉 。 当 我 正 想 用 左 拳击 他 的 腹部 时 , 我 意识 到 , 此时 的 我 是 寡 , 他 是 众 , 寡不敌众 , 我 此时 不能 出 拳 , 也 不能 让 他 知道 我 还 懂得 武术 。 我 就 停止 了 攻击 。

私がその時学んだ些かの拳術は、それでも役立ったことがある。「文化大革命」のさなか、紅衛兵がきて私を掴んだ時、彼は左手で私の←手を掴んでひっくり返そうとしたのだが、私は幼年時に習った拳術で、即座に反転して、先に私の右手で彼の右肩をつかみ、それから素早く前腕で喉を押さえ封じた。左の拳で彼の腹部を正に突こうとした時、気がついた。こちらは私一人、彼には仲間がいる。多勢に無勢、ここで拳を繰り出すことはできない。私に武術の心得があるのを知られてもならない。私は攻撃を止めた。

有一次(大概在我婚后不久),我与丈夫打着玩,我装出一副要踢他的样子。我丈夫是一个一贯幽默而有风趣的人,他没有逃跑而是冲向了我,做出一副想要扶住我,怕我跌倒的模样,并且脸上露出乞怜的微笑。我大声喝道:“你想干嘛?”他说:“太太,我怕你闪了腰!”这是他在讥笑我,不相信我真的会武功。其实,如果他能在后来看到我在“文化大革命”中,与红卫兵的那一段“真刀真枪”的反败为胜的武术表演,就不敢小瞧我了。

結婚して間もなかったころ、ふざけて夫を蹴る真似をしたことがあった。夫はユーモア精神が旺盛な人で、避けるどころか私が倒れないよう支えるようなそぶりをし、おまけに哀れっぽく微笑みかけた。私が大声で「なぁに?」と言うと 「君が腰を痛めやしないかと思ってね。」とからかう様に笑って答えた。私に武術の心得があるとは思っていなかったのだ。けれどもし後の「文化大革命」で、紅衛兵とのあの敗北転じて勝利と成した「真剣勝負」に立ち会ったとしたら、私を軽く見ることはできなかったであろう。

父亲训练孩子们要有言论自由的民主思想。一个暑假的晚上,我们全家坐在天井里乘凉。父亲就利用这个机会,用砖头砌成一个小高堆,让孩子们站在上面,练习演讲,说他们自己想说的话。家里的成人们就是听众,他们可以用鼓掌来表示他们的赞赏。有一次,因为父亲不公平地惩罚了我的二哥,我那位跛足的表哥,就站起来讲了一个有关暴君的故事。很明显,他是在很严肃地以此来批评父亲。听众们都为表哥捏了一把汗,深怕父亲因此而发脾气,会制止他继续说下去,惩罚他。但是完全出于意外,父亲却是静静地听完他的演说,夸奖了他。这个情景深深地影响了我,并且给了我很好的教育。后来到了中年,当我在工作的时候,对我的下属同事们对我的批评,无论对与错,都能静静地听完,因此他们很赞赏我。我对上级,也同样敢于直言不讳。

父は子供たちが民主的に自由に意見を言えるよう訓練をした。ある夏休みの夕暮れ、家族全員は中庭で涼んでいた。父はその時を利用してレンガを積んで台を作り、子供たちを上に立たせ演説の練習をさせた。言いたいと思う事を話しなさいと言った。大人たちが聞き手となり、拍手を以って褒めてくれた。ある時、父が次兄を不当に罰したことがあった。足の悪い従兄は台に立ち、暴君の話をした。明らかにその話を以って父を厳しく批判したのだった。聞き手は冷や冷やし、父が怒って話を止めさせて罰するのではないかと気を揉んだ。しかし全く意外な事に、父は演説を静かに聞き終えると彼を褒めたのであった。私は深く感化されて、大変素晴らしい教育となった。後になって、仕事の上で直属の部下の私への批判を、正しくても間違っていても、冷静に受け止める事ができた。このため部下は私を高く評価した。また私は上司に対しては直言して憚らなかった。

父亲还常常训练我们,在吃中餐或西餐时应该注意的一些礼节。从我五岁起,他就带我参加一些中西宴会和鸡尾酒会,让我学会怎样去做一个酒宴上的女主人。其实,我当年只是一个孩子。

父は常に子供たちを躾け、食事時は礼儀作法を注意した。私は5歳から、中国式・西洋式の宴会やカクテル・パーティに連れていかれ、酒宴での女主人のマナーを学ばされた。まだほんの子供であったのに。

父亲那时是县长。有一次他在衙门里宴请客人,让我去充当女主人,并且告诉我说:要懂得做女主人的礼节,当客人们还没有放下筷子的时候,做主人的先放下筷子就是不礼貌。刚好那一天,我们几个孩子已经研究好了要对另几个坏孩子进行一次严肃的惩罚,并且约定好大家只要一听到哨音,就要赶到后花园集合,这不是游戏,而是一次严肃的行动。所以,当我在父亲宴客的饭桌上听到这哨音带来的命令时,简直不知如何是好,是丢下筷子立刻就去?还是遵循父亲的教导,留下来陪客人?当这个哨音响到第三遍时,我才不得不向父亲扯谎,说要去小便,经父亲同意后,才丢下筷子匆匆往后花园跑。当然,那一次我已经违约了。当我跑到后花园时,那个行动早已结束了。但是,父亲关于饭桌上的礼貌与训练的教训,深深地印在了我的头脑中。

父が県知事の役にあった時、公務室に客を招き宴を設けて私に女主人役を務めさせたことがあった。客が箸を置かないうちに主人側が箸を置くのは礼を失する。女主人の礼儀として心得ておくように、と教えられらた。ちょうどその日、私たちは他所のいたずらっ子たちをやり返す相談をするために、合図の音が聞こえたら裏の庭園に集合することになっていた。これは遊びではなく真面目な行動であった。そこで、父の宴席で合図の呼子を聞いた時にどうしたら良いのか分からなかった。箸を置き立っていいのだろうか?それとも父の教えのとおり、残って客をもてなすのか?3度目の呼子が鳴った時、私はとうとう父に嘘をつかざるを得なかった。お手洗いに行きたいと言い、父の許しをもらうとすぐに箸を置き、慌てて庭園へ駆けて行った。が、約束を違えたわけで、裏庭に着いた時に事はもう終わっていた。けれど父が躾けてくれた食卓でのマナーは深く刻み込まれている。

父亲后来又转到军队里担任军法官。在任期间,他一直是禁赌、禁毒的执法者。对那些来说情的人,不仅仅不收贿,而且对行贿者们也毫不留情,一律绳之以法,把他们关到监狱里。所以,再没有人敢向他行贿。有一次,一个被上一任法官定了罪的犯人,被父亲查明实际是冤枉的,就把那人释放了。那个人在临出狱前,留下了一千元钱,放在褥子底下,并留下一张字条,说明是送给我父亲的,是为了感谢父亲弄清了他的冤情而送的谢礼。父亲是不会接受这种钱的,但又无法查明这个人的去向。不久(1931年夏天),长江发大水,武汉三镇的部分地区遭受水灾,灾民们只得爬到屋顶上去,他们都在挨饿。有一天晚上,我忽然听到很大的声音,那是父亲在捶他的书桌,他大声地喊着:“我知道了!”他就命令一个下属到他面前来,叫那个下属把这一千块钱,买成馒头,划着船,每天去送给那些被困在屋顶上的灾民们吃。父亲又把我们叫到身边,说:“孩子们,你们要永远记住,来到你们手中的钱,不属于你们自己,属于天。这是天的钱,交给你们代管。你们要为天,用在合适的地方。”父亲的这些话,永远记在了我的心上。父亲说这些话时母亲也在旁边,她就接着说:“你们现在知道天在你们的行为中的重要了。 还有一个人也十分重要,你们知道是谁吗?就是一个‘我’字。我就是每个人的自己,你做了任何事都瞒不过天和‘我’——你自己。你不能想,更不能做坏事,天晓得,你自己晓得,一丝一毫也瞒不过你自己,所以一点也不能干坏事,当你自己知道你确实坏,不可爱,不可敬的时候,你永远也不会真正快乐。”

父はその後、軍隊の軍法官となった。在任期間中、一貫して賭博・阿片を禁じて取り締まった。陳情に来た者の賄賂を受けないばかりか、差し出す者に対しても容赦なく法に照らして処罰し監獄に送ったので、袖の下を差しだす者などいなくなった。前任の法官が裁いた罪人の一人を父が調べて、冤罪を明らかにし釈放したことがあった。彼は出獄にあたって千元を布団の下に残し、付箋には私の父に贈るとあった。父が冤罪を晴らしてあげたお礼出あった。父はこのような金銭を受け取るできないとしたが彼の行方は知れなかった。しばらくして(1931年の夏)長江が氾濫し、武漢三都が水害を被った。被災者は屋根に上るしかなく、皆餓えていた。ある夜、私は突然に大きな音を聞いた。父がデスクを叩きながら叫んでいた。「そうだ!」 直ぐに父は部下を呼び、あの千元でマントウを買い、舟で屋根の上で困っている被災者に毎日届けるよう言い付けた。父はまた子供たちを傍に呼び言った。「よく覚えておきなさい。手にしたお金は自分のものではない、天に属するものだ。この天のお金を代わって管理するよう与えられたのだ。神様のために適切に遣うのだよ。」父のこの教えは心にしっかりと残っている。この時、母も傍にいて続けて言った、「あなた達の行為で神さまがどんなに大事かが分ったでしょう。そしてまだ大事な人がいるのよ、誰か分かる?それは「私」なの。私たち一人一人は、何事にせよ神さまと「私」を騙すことはできないの-----自分をね。悪事を考えることもできないし、ましてする事などできないの。神さまには分かるし、自分にも分かるのよ。ちょっとでも自分を欺くなんて出来ない、だから悪いこともできないの。自分が確かに悪いと知っていたら、自分を愛せないしプライドも持てないの。心は永遠に満たされないのよ。」
[PR]
by dangao41 | 2012-02-13 09:20 | Comments(0)

一粒珍珠的故事 3

父亲常常跟我们说:“你们上大学的时候,一定要专修医学。绝对不要做文官,也不要做武官。”他自己在这两个职业里得出的经验,都是很痛苦的。他说,做文官就等于当婊子。要把自己的眼泪往肚子里流,并要装出假笑,来博得上级的欢心;而做一个武官,就是做奴隶,不管是对与不对,你都得服从命令去干。所以,最好的职业,就是当一个医生。这个职业是正直而清白的。他鼓励我们都要去学医,但是这个愿望,只在我大哥和妹妹身上实现了。

「大学では医学を学びなさい。決して文官になってはいけない、武官もだめだ。」と父はいつも私たちに言っていた 父自身がその二つの職についた経験から得たことで、共に辛い仕事だという。父によれば文官は芸妓に等しい。心で泣き、作り笑いを浮かべ、上役の機嫌を取る。武官はと言えば奴隷である。正しかろうが無かろうが命じられれば服従しなくてはならない。医者が一番良い。公平率直で清廉潔白である。私達みなに医学を学べと励ました。しかし父のこの想いを実現させたのは長兄と妹だけであった。

二哥是一个土木工程师。抗战时期,他在云南昆明修筑了邬家坝飞机场。这个飞机场,是给美国飞虎队使用的,直到今天还在用。后来,又修筑了滇缅公路。这条公路对中国国际物资的运输起了很大的作用。可以说,二哥虽然没去学医,但是他对国家的贡献还是很大的。

次兄は土木エンジニアであった。戦争中は雲南昆明で邬家坝空港の修築にあたっていた。この飛行場は当時アメリカのフライングタイガー隊に提供したもので、今に至るまで使われている。 その後、雲南・ミャンマー間の道路を修築した。この幹線道路は中国への国際物資の輸送に大いに役だった。次兄は医学を修めなかったとはいえ、国家への貢献度ははるかに大きかったのではなかろうか。

我的理科功课成绩都很差,所以在考大学的时候,不敢去考理科,而对英国文学情有独钟,因此我后来就选择了燕京大学的英国文学系,而没有去读医科。这是经过父亲同意了的。我弟弟在抗日战争时期是昆明西南联合大学生物学系的学生,也没有去读医科。因为父亲在前线抗日,顾及不到家庭和儿女的教育,以致我弟弟就偷了个巧,不去读医科,而读了生物学系。在我们家的五个兄弟姐妹中,最终只有大哥和妹妹两人学了医。而且妹妹后来在医学上有很深的造诣,是一位非常有成就的医生。

私の理系の成績はいずれも劣っていたので大学で理系に進もうとは思わなかった。興味はイギリス文学にあったので医学ではなく、燕京大学のイギリス文学部を選んだ。父の同意を得てのことである。弟は抗日戦争中、昆明西南連合大学の生物学部の学生であったが、やはり医学は学ばなかった。父は抗日前線におり家庭と子供たちの教育に係わることができなかったからだ。その機に乗じて弟は医科にはいかず生物学を勉強したわけだ。5人の兄弟姉妹のうち、結局は長兄と妹だけが医学を修めたのだが、後に妹は医学に深い造詣をもった非常に優秀な医者となった。

现在我想讲一个有趣的小故事,说明父亲一个愿望在他的孩子身上成功了,他是如何的快乐。妹妹从湘雅医学院毕业后,就被派到重庆北碚,在江苏医院的妇产科工作。当时,我们的家就住在北碚。正好是父亲一年一度的休假期间,他每天早晨陪着我妹妹去上班,并且每天都抢着坐在妇产科门诊的最挨近医生的第一个座位上。有一天中午,医院已关门休息,父亲还坐在那里。一位护士走来说:“这里不是老头待的地方。”父亲笑着回答说:“我就是为了每天专门来听病人们喊一声‘刘医生’的 。”

我在前面已经讲过,父亲一生以禁毒、禁赌为他的重要职责,而且非常执著与严肃。

抗日战争开始时的某一天早晨,我和父亲正在吃早点,有一名士兵进来报告:有一列火车上的一节车箱中装满了鸦片,这列火车今天下午4时要经过武昌,运到下一站交给一个鸦片贩子。据说,这批烟土属于第十军军长,他倾其所有的钱,准备在这个上面发一笔大财。那个士兵问:“烟土到了以后,烧吗?”父亲回答说:“当然!烧鸦片是军长自己的命令。”不久,有几个士兵连同他们的队长都来了,请父亲再考虑这件事情的后果。父亲说:“我考虑了我的良心。烧!”这些士兵低着头离开了。不一会,更多的士兵来到父亲的面前,跪下说:“请您考虑我们的将来,同您自己的将来。军长可以任意找一个借口,把我们都杀掉,那就随他去!但是我们的父母、子女们怎么办?”那个士兵又接着说:“军长是在您的世故上赌博,他想大捞一笔,然后就逃离战争。军长是有意暗示他的人向您露出这个消息——这节车箱是他的。他高高在上,有权有势,我们是小蚂蚁,一捏就死,可是我们的老小怎么办?”所有的士兵都哭了。几分钟的沉默以后,父亲长叹一声说:“让这节车箱过去吧!”这些兵们都站起来走了。我问父亲:“你为什么这样让步?”他回答:“有一句老话,端人家的碗,服人家的管。”我看见他的眼 里,泪水盈盈。我哭了,我看到一个想保持自己的清白的人终于投降了。国家无望了!可怕的、绝对的黑暗包围着我。后来,无论任何时候,只要一回想到这一情景,我就忍不住眼泪奔流。

还是回到我的儿童时代吧。我的私塾先生由于受到了现代气息的感染,告诉母亲说,他要利用晚上的时间,自己去学英文。母亲同意了。从那时以后,我们晚上的自修课就很自由。天晓得我们这五个孩子(小舅舅、大哥、二哥、表哥和我)在这段时间里,都在做些什么。

有一天,我们全家乘轮渡从武昌到汉口去看一个白俄马戏团的表演。这在武汉来说,是一件大事。我们几个孩子都非常兴奋和激动。看完表演回家以后,我那位小舅舅忽发奇想,想把我们五个人组成一个马戏团。他买了软木,做成一根光滑的长棍,学着马戏团的样子,把长棍当成钢丝,悬空起来,让我们在上面表演走钢丝,或者是翻跟头。后来,我已经能够像一个演员似的拿着一把伞,在上面表演平衡。但是,这样的快乐并没有维持多久。1923年,父亲萌发了一种新的思想——为了让我们赶上新时代的潮流,停办私塾,叫我们改读公立学校。

那年(1923)的9月,我们开始各读各的学校。大哥去了上海,读一个德国医科大学的附属中学;二哥去读武汉师范大学的附属中学;我去了武汉最有名的小学——模范小学,读五年级。我记得入学考试那天,我身穿一套崭新的白色衣裤,手里拿着一瓶蓝墨水(因为那个时候还没有自来水笔)。父亲亲自送我去参加入学考试。我们还没有走到学校门口,手中的墨水已经泼得我满身都是。考完试以后,老师告诉父亲,说我的文章写得非常好。那是因为我经过了私塾的训练,写得一手好文言文,这是那些公立学校的学生比不上的。可是我对数学却一窍不通,连阿拉伯数字都不认识,我数学考了个零分。这种成绩,只应该由一年级读起,但是我的年龄已经是十一岁了,所以老师只好把我放在五年级。但由于数学我根本不行,老师也只好在课外单独为我补习。从阿拉伯数字、数学的四则运算学起。但是无论如何,我的数学成绩总是全班最差的。这个时候,我的同班同学已经在学分数与括号了。

我们那所学校五年级的这个班上只有我一个女生。那所学校刚开始有“女士优先”的女权制度,所以校方把我在课堂里的座位安排在最好的第一排的正中,在队列中,我也是站在最前边。班主任姚老师是武汉师范大学的毕业生,他对我特别照顾,课外给我补课,不准男生欺侮我,等等。

当我读六年级的时候,我们的校长到法国去考察了一次他们的小学教育,回国以后他特别欣赏他们的“道尔登”制的学习方法。这种学习方法,要求小学生们要有自学的能力,老师只是规定你的进度,你只有在不懂的地方,才可以向老师提问。据说,由于激发了学生们的自学能力,学生们的学习成绩可以飞速提高。但是当他把这种学习方法运用到我这个班上时,我的学习成绩不是提高了而是远远地落在后面。因为我一直受到的是填鸭式的教育,在我的头脑中还根本没有形成自学的习惯。

六年级的时候,一个个子高挑的美丽的姑娘(数学老师的侄女儿)加入到我这个班,她的名字是江泽渲。我们俩一见如故,后来成了终生的朋友。我们的书包里,每天放着几本书、一块石板、几支石笔,从这个教室谈到那个教室,有谈不完的闲话,简直不读书。有一天校长召集老师开会,老师报告了学生的学习情况,只有少数的学生,能够超过学习标准,多半都远远落后。校长十分生气。当时的学校已废除了教师对学生的体罚,我们模范小学从各方面来说,都是最进步的。可是这一次,校长太生气了,他不管三七二十一,就宣布凡是落后的学生都要集体打手板。一天早晨,我们在操场上排着队,等待打手板。有两个个子很高的女生,不是小姑娘了,她们的班级老师把她们俩留在老师的办公室里,给她们留面子。当时我很矮小,就没有人关心我是否丢脸。我自己找到操场上最后一排的最后一个位子,站在那里,心想:校长老头儿,打了几百个手板,打到我这里,可能很累了,就不打了。可这只是我的一厢情愿,所谓好运不来厄运来,我的右手马上挨了一个重重的板子,手心立刻肿得很高。校长要我牢牢记住这个教训,还狠狠地看了我一眼。我是受到了这个可耻的刑罚的惟一女生,男生们笑我、逗我,说这是因为我的辫子太短了!

从此以后,我发愤读书,直到六年级的终了。虽然我挨过打,在数学班上度过了很艰难的岁月,我还是真正地热爱我的小学生活。尤其是爱每天早晨7点半的升旗仪式。当我们的红黄蓝白黑五色国旗缓缓上升时,我们都立正敬礼唱国歌,红黄蓝白黑表示了我国五大民族,汉、满、蒙、回、藏组成了中华民国。接着,我们的老校长就要用二十分钟的时间,讲述我们国家近百年的历史。我逐渐地认识到自己是一个中国的国民,进而热爱我们这块土地。我对自己说,长大了,我一定要救中国。

第一章完
[PR]
by dangao41 | 2012-02-13 09:10 | Comments(0)

戸隠

先週末に戸隠へ行きました。この地の戸隠神社は明治以前は山伏系の仏教寺だったそうで、建物はどれもどっしりと厳かでした。その中の一つ、登録文化財で茅葺屋根の宿房極意に泊まりました。ここで宴会なんかしてもいいのぉ!?という立派なご本堂の端っこで夕食を頂きましたよ。その日はたまたま松明祭で、本当に燃えてる松明(たいまつ)を持っていささか不気味な行列に参加した後、花火とどんど焼きも見る事ができました。花火はごく近くで打ち上げるので、見上げる首が痛くなりましたが、それだけに迫力もありとても綺麗でした。どんど焼きは私には初めての経験、最後に長い竹棒の先につけたお餅をもらって焼いて食べました。お醤油も塩もなしに食べた白餅なのに、ほんのり甘くて美味しかったです。お餅が焼ける前に顔が焼けそうでしたがね。
 
さて目的はスキーです。長いブランクの後また始めたのですが一緒に行ってくれる人がなかなかいなくて、ここ数年はやっと見つけた長野の友とそのお仲間に混ぜてもらっています。友達と私の他は男性で、みなさんシニアとはいえ毎週のようにスキー場通いという、パワフルな滑りのそれは素敵なジモティさん達です。私は下手ではありませんが、膝がもう悪くなってしまって転んだら板を付けたままではたぶん起き上がれません。ですから乗っていれば自然に板が滑ってくれる位の斜面を友達とのんびりと、でしたが今回は友達が調子の良くないご主人に付き添って休んでる、となりました。そうしましたら80歳のSさんが、ご自分も無理したくないのでと私と一緒に滑ってくださる事に。帽子とゴーグルをつけて滑走しているのを見れば誰も80歳とは思わないSさんです、申し訳なくも思いましたがお言葉に甘えました。一人では行かれないな、と思っていた上のリフトにも乗って素晴らしい景色を眺めて滑ったのも、豊かな人生経験をお持ちのSさんのとお話も、とても楽しい事でした。
 
来月もそのお仲間と一緒のスキーがあって、ちょうど善光寺の平和を祈る灯明祭りも同じ時期なのです。長い参道に灯明が置かれ、善光寺もライトアップされるのですって。中国の元宵みたいかしらと楽しみです。
[PR]
by dangao41 | 2012-01-27 18:03 | Comments(0)