一粒珍珠的故事 2

还有个故事是关于我的外祖父的。他与我们曾经一起生活了好几年,是一位很慈祥的佛教徒。他年轻的时候,有一次,在乡间的一个夜晚,他与佣人一起从外面回家,佣人手提一盏西瓜形的纸灯笼。当他们来到自家大门口时,外祖父看到两个佃农,从他家中扛出两桶菜油。这时候,外祖父立刻吩咐佣人把灯吹灭,躲在一边,让那两个偷东西的佃农从身边走过去。事后佣人问他:“少爷,你为什么不连人带赃一起把他们抓起来?”他就说:“年关接近,他们一定是缺少食油,而我家里食油又够多的了。没有人会喜欢偷东西,他们俩一定是家庭负担过重。他们都是勤劳老实的农民,这个错在我!今天晚上我取得了一个教训。以后我知道了,在年关前,我应该多关怀佃农们的生活情况。我们吹灭了灯笼,好像没有发生任何事情一样,是为了不使他们尴尬,才能使我们之间的关系自然平稳地继续下去。

中には父方の祖父の物語もあった。祖父とは何年も一緒に暮らした事があったが、慈愛深い仏教徒だった。若いころ郷にいた時のある夜、祖父使用人と共に外出から帰るとき、使用人は楕円形の提灯を提げていた。家の門まで来た時、祖父は二人の小作人が家から二桶の菜種油を担ぎ出てくるのを見た。祖父はすぐに火を消させ身を隠し、盗人の小作人をやり過ごした。使用人が 「若旦那さま、どうして盗っ人を品物もろともを押さえないんですか?」と聞くと、こう答えたという。「もうじき年も暮れる、油がないに違いない。家はといえばたくさんあるではないか。誰だって盗みなんてしたくないだろう、困っているのだよ。二人とも良く働く農夫だ。私がいけなかったんだ。今晩の事は良い教訓だ、師走には小作達の暮し向きに注意すべきだと分かったよ。提灯の火を消したから、何も起こらなかったも同様だ。彼らに気まり悪い思いはさせなかった、あの二人とこれからも穏やかにやっていけると云うものだ。



母亲在讲完这个故事以后,对我们总结说:“我们要从这里学习为别人着想,不要只考虑自己的需要和自己的地位。我们都是人,我们有同样的物质需求,不同的仅仅是,他们穷,我们富。在上天的眼睛里,我们并不比他们高尚。”

母は話し終わると「このお話から人を思いやる事を学べたでしょう、自分の欲や身分ばかり考えてはいけないの。私たちはみんな人間なのよ、必要な物は同じ、ただの違いは彼らは貧しくて私たちは富んでいると云うだけ。神様がご覧になったら、私たちの方が立派だなんて事はないの。」 と締め括った。

母亲讲的故事中间,也有好些是西方的故事,其中有一个故事讲的就是美国第一任总统华盛顿。当他还是一个小孩子的时候,就能很诚实地承认自家花园里的樱桃树是他砍的,避免了佣人和农奴们受到冤枉。从那以后,哥哥和我,深深地记住了母亲的话:一个真正的人,要有智慧认识自己的错,要有勇气承担自己的错,要有毅力来改正自己的错。

母がしてくれた話のなかには西洋の物もたくさんあって。その中の一つがアメリカの初代大統領ワシントンの物語だった。ワシントンはまだ小さな子供だったとき、庭の桜の木を切り倒したのは自分だと正直に認め、使用人や奴隷が濡れ衣を着せられないようにした。そのエピソードは私と兄の胸に深く刻まれた。まっとうな人間は自分の過ちを認める心を持たねばならない、勇気を持って過失の責任をとり、強い意志を以って己の間違いを正さねばならない、と。

母亲还讲过一个耶稣基督帮助门徒洗脚的故事。这个故事使我非常惭愧。我才开始知道,一个伟大的人是非常谦让的,那些骄慢的人,才是真正浅薄的。母亲带我去看了几次马戏,马戏中有一“丑角”。这个“丑角”一无所长,却自以为很能干,样样都自以为是。他很骄傲地对待别人,其实别人都在背后耻笑他。我开始怀疑我自己是否就像那个“丑角”。于是,偷偷地改变我自己对别人的骄慢与暴戾的行为,从此在待人接物方面,开始有所收敛。

またキリストが弟子の足を洗った話もしてくれた。この話は私は恥じ入った。偉大な人物は謙虚なのだ。傲慢な人間こそが浅薄なのだ。母に何度かサーカスに連れて行ってもらった事があるが、サーカスにはピエロがいた。このピエロは何もできないくせに、自分は何でもできる、自分は何でも正しい、と考えていた。彼はとても傲慢に人に対したが、その実、皆は影で彼を嘲笑った。私はこのピエロは自分ではないかと思い始めた。そこで、密かに人に対する自分の高慢で横暴な態度を改めることにし、この時から人と接し方においての自制が始まった。

我家的仆人,有三个都带着自己的孩子住在我们家。我对他们都很公平,从来不摆大小姐架子,也从不欺侮他们。现在想来,那时大约认为他们都是玩伴,都是与我平等的,与仆人不同。

家の三人の使用人はみな自分たちの子供も一緒に住みこんでいた。 私はその子たちを差別したりせず、お嬢様風を吹かしたりしなかったし、虐めたこともなかった。 今になって思えば、当時は多分彼らを遊び友達と認識していたので、みな私と同じと思っていたのだ、雇い人とおなじではなかった。 

每当父母亲分些食品给我,叫我分给孩子们一起吃的时候,我除了分给自己的哥哥、妹妹们以外,还很平等地分一份给他们每一个人。到现在为止,我自己也很奇怪,为什么那时我很小的年纪,就会有这种平等的思想。我的父亲就因为我有这种品行,所以特别喜欢我。

両親に食べ物をもらって皆で分けて食べなさいと言われ時、私はいつでも兄や妹たちだけでなく、使用人の子供たちにも同じように分けた。いま考えても、なぜあんなに小さかった時から平等の思考をもっていたのか、自分でも不思議に思う。父が格別に私を好んだのは、このような行為のためであった。

不知不觉地,母亲的故事改变了我天性中坏的素质。我记得母亲刚刚讲完《水浒》里面的故事,我们这些孩子都非常崇拜那一百零八个英雄。当我十岁的时候,我们全家定居武昌城里的一幢大宅院。
大宅院后面有一个花园,花园里有一个亭子,被大哥与二哥宣布为男孩子们的司令部,取名为“龙虎寨”。我不甘示弱,就将花园中间的假石山宣布为女孩子们的司令部,取名“凤凰山”。我们双方都挂出红旗,上写:“替天行道”,让它们随风飘扬。我们都以那面红旗为骄傲。但是在我们的环境中,并没有残暴的富人,也没有需要我们去保护的穷人与老百姓。所以我们双方定下,每周三的早晨是彼此武力比赛的时间。但是在这座大宅门里,比我大的姑娘们都是闺阁千金,比我小的姑娘又都是不能打架的人。只有一个保姆的女儿名叫富枝,和我一样都刚过十岁,是可以参加战斗的人。在龙虎寨方面,大哥和我的一个小舅舅,是头领,二哥和表哥是兵。在凤凰山这边,我举荐了两个秀气的大姑娘做头领,而我与富枝就是凤凰山的战将。根据中国传统的战斗规则,是兵与兵斗,将与将杀。这样一来,我们就把大哥与小舅他们俩架空了。他们那两个是男子汉,是绝对不敢找我们那两位金枝玉叶的小姐去打架的。而在们这边,兵对兵,我与富枝就可以去打二哥与表哥。富枝是一个农村小女孩,长得孔武有力,打二哥与表哥是绰绰有余的。况且我这位表哥还稍微有点瘸。经常是富枝应二哥的挑战,而我应表哥的挑战。但是有一天,富枝病了,二哥来喊战,我只得被迫应战。战斗中,二哥重重地一拳把我打倒在地,爬不起来,疼痛难忍,我竟然嚎啕大哭。妈妈在远处听到了,怒声发问:“你们在搞些什么?”我深怕母亲来了会打我的二哥,我就自己把嘴紧紧地捂上。这个时候,妈妈的故事,已经彻底地改变了我对哥哥们的态度。

知らず知らずに、母の物語は私の生まれ持った性質の悪い部分を変えていった。《 水滸伝 》の故事を母が話し終えたときのことを覚えているのだが、たちまち私たちは皆、その108人の英雄を崇め敬った。私が10歳の頃で、私たち一族は武昌の大きな屋敷に住んでいた。屋敷の後ろ側は庭園で東屋があった。長兄と次兄にその東屋を男子の司令部とする宣言されてしまった。東屋は「龍虎賽」とされた。私も負けじと、中間にあった築山を女子の司令部とし「鳳凰山」と命名した。双方とも赤い旗を掲げ、“替天行道”と記したその旗は風に翻り、どちらの陣もこの旗をとても誇らしく思った。ところが私たちの周りには、残虐な金持ちも、私たちが守るべき貧乏人も庶民もいないのである。そこで毎週水曜日の朝は庭で武力比べをする時間と決めた。けれど屋敷に住む娘たちで私より大きい者は深窓の令嬢であり、小さい者は戦うなどできはしない。たったひとり保母の娘で富枝というのが私と同じ10歳になったばかりで、戦闘に加われた。龍虎賽では長兄と年若い叔父が首領で、次兄と従兄が兵であった。鳳凰山はといえば、私は推挙して綺麗な二人のお嬢さまを首領にすえ、私と富枝が鳳凰山の兵士であった。中国の闘いの伝統に則れば、兵は兵と、将は将と戦うのだ。これで、私たちは長兄と叔父を名目だけのものとできた。男らしい男として彼らはこちらの陣のお嬢さん二人に闘いを挑んだりは決してできないのだ。そして兵と兵として、私と富枝は次兄・従兄と戦う事ができた。富枝は農村の娘で威風堂々と力強く、次兄と従兄とやりあっても余りあった。その上従兄は足を少し引きずって歩く。いつも富枝は次兄の相手をし、私は従兄と対した。ところがある日、富枝は病気になった。次兄が挑んできたので私は応戦せざるを得なかったのが、闘争中、手ひどい一撃をくらって打ち倒された。私は起き上がれず、痛みに耐えかねて思わず大声をあげ泣いてしまった。離れたところの母にも聞こえてしまい、 「あなたたち何をしているの?」 と怒られた。母がきて兄を叩くかもしれないと心配した私は口をしっかりと塞いだ。この頃には、母の故事が私の兄たちに対する態度を全く変えていたのだった。

在姐妹中,母亲比较爱我妹妹一些。因为她温顺,听母亲的话,从不问为什么。而我呢,总是要问一个“为什么”。假如母亲命令的理由不充分,我多半就不服从,而且要与母亲辩论。母亲为此向父亲抱怨,但父亲却觉得我这样做是对的。他认为,为人处世就应该这样,凡事都应该弄清为什么,然后再做。

姉妹のうち、母のお気に入りはどちらかというと妹であった。妹は素直でおとなしく母の言いつけをよくきいたからだ。私といえばいつでも「なぜ?」」と尋ねた。母の命じた理由に納得がいかなかったら、大かたは従わずに自分の考えを述べた。そのため母は父に文句を言ったが、父は私の態度は正しいと思っていた。父は、人と成り世を処すには私のようであるべきで、何事であれ得心してから行動すべし、と考えていたのだ。

在 学校 里 , 我 的 私 塾 先生 规定 我们 一定 要 一字 一 句 地 背诵 所 有的 课文 。 但是 我 只 肯 背诵 诗词 , 对 《 论语 》 、 《 孟子 》 、 《 大学 》 、 《 中庸 》 等 , 我 就 不肯 背诵 , 认为 只要 懂得 了 它们 的 意思 就 行 了 。 老师 认为 我 不肯 背书 是 不 听话 , 就要 罚 我 的 跪 , 我 就 偏 不 跪 , 老师 踢 我 的 腿 , 我 还是 不 跪 , 老师 就 把 我 整个 身子 拎 起来 朝 地下 一 掼 , 迫使 我 跪下 , 但是 我 仍然 倔强 地 站 了 起来 。 因为 我 认为 我 的 理由 是 正确 的 , 我 对 正确 的 事情 是 有 自信 的 。 我 深信 父亲 对 我 的 教育 : 凡事 只 要是 对 的 正确 的 , 就 应该 坚持 。

教室では、先生は教科書の文章を全て一字一句暗記することを要求した。けれど私は詩は暗唱したが、《 论语 》 、 《 孟子 》 、 《 大学 》 、 《 中庸 》 等はしなかった。意味が理解できればいいと考えていた。先生は私が暗記しないのは言いつけに背くことだとして、罰に跪かせようとした。私は意地でも跪かない。足を蹴られたが、それでも立っていた。先生は私の体を掴んで地面に押し倒ししゃがませようとしたが、私は頑として起き立上がった。私は自分が正しいと思っていたし、その正しさを確信もしていた。凡そ物事は筋が通っているならば正しい、ならば堅持すべし、という父の教えを私は堅く信じていたのだった。

当 哥哥 们 和 我 都 还 很 小 的时候 , 父亲 雇 了 一个 南拳 派 的 武术 教师 , 教 我们 拳术 。 我 母亲 不同意 我 参加 。 她 说 : “ 女孩子 学 了 拳术 有 什么 用 ? ” 父亲 以 他 一贯 的 幽默 叫 着 说 : “ 哦 , 非常 必要 ! 当 她 丈夫 不 听话 的时候 , 她 可以 一 脚 把 他 踢 到 大 门外 。 ” 边 说 边 做出 那个 踢 的 姿 式 , 大家 都 笑 了 。 从此 , 我 就 和 哥哥 们 一起 学 拳术 了 。 那年 我 六 岁 。 武术 中 除了 拳术 外 , 还有 兵器 棍 、 鞭 、 刀 、 剑 、 矛 等等 。 但是 , 我 只 学 了 拳术 以及 棍 术 , 后面 的 我 就 没有 学 了 。

兄たちや私がまだ小さかった頃、父は南拳流武術の先生を頼んで拳術を習わせた。母は私が加わるのに反対した。「女の子が拳術など習ってどうしますか?」 父は彼一流のユーモアを以って言った。「おお、役にたつとも!夫が言う事を聞かないときは一蹴りして外に放り出せるさ。」 と言いながら蹴る真似をして見せたので皆大笑いした。そこで私も兄たちと一緒に拳術を学べることになったのだった。6歳の時である。武道は拳術の他に、棍棒、鞭、刀、剣、矛などがあった。けれど私は拳術と棍術だけで、後のものはやっていない。

我 在 那个 时候 学 的 这 一点 拳术 , 还 帮助 过 我 。 “ 文化大革命 ” 中 , 当 一个 红卫兵 前来 揪 斗 我 的时候 , 用 他 的 左手 揪 住 我 的 左手 , 企图 把 我 反 转 过来 , 我 利用 幼年 时 学 的 一点 拳术 马上 反 转身 来 , 先 用 我 的 右 掌 抓住 他 的 右 肩 , 然后 , 迅速 以 我 的 前 肘 , 封住 了 他 的 咽喉 。 当 我 正 想 用 左 拳击 他 的 腹部 时 , 我 意识 到 , 此时 的 我 是 寡 , 他 是 众 , 寡不敌众 , 我 此时 不能 出 拳 , 也 不能 让 他 知道 我 还 懂得 武术 。 我 就 停止 了 攻击 。

私がその時学んだ些かの拳術は、それでも役立ったことがある。「文化大革命」のさなか、紅衛兵がきて私を掴んだ時、彼は左手で私の←手を掴んでひっくり返そうとしたのだが、私は幼年時に習った拳術で、即座に反転して、先に私の右手で彼の右肩をつかみ、それから素早く前腕で喉を押さえ封じた。左の拳で彼の腹部を正に突こうとした時、気がついた。こちらは私一人、彼には仲間がいる。多勢に無勢、ここで拳を繰り出すことはできない。私に武術の心得があるのを知られてもならない。私は攻撃を止めた。

有一次(大概在我婚后不久),我与丈夫打着玩,我装出一副要踢他的样子。我丈夫是一个一贯幽默而有风趣的人,他没有逃跑而是冲向了我,做出一副想要扶住我,怕我跌倒的模样,并且脸上露出乞怜的微笑。我大声喝道:“你想干嘛?”他说:“太太,我怕你闪了腰!”这是他在讥笑我,不相信我真的会武功。其实,如果他能在后来看到我在“文化大革命”中,与红卫兵的那一段“真刀真枪”的反败为胜的武术表演,就不敢小瞧我了。

結婚して間もなかったころ、ふざけて夫を蹴る真似をしたことがあった。夫はユーモア精神が旺盛な人で、避けるどころか私が倒れないよう支えるようなそぶりをし、おまけに哀れっぽく微笑みかけた。私が大声で「なぁに?」と言うと 「君が腰を痛めやしないかと思ってね。」とからかう様に笑って答えた。私に武術の心得があるとは思っていなかったのだ。けれどもし後の「文化大革命」で、紅衛兵とのあの敗北転じて勝利と成した「真剣勝負」に立ち会ったとしたら、私を軽く見ることはできなかったであろう。

父亲训练孩子们要有言论自由的民主思想。一个暑假的晚上,我们全家坐在天井里乘凉。父亲就利用这个机会,用砖头砌成一个小高堆,让孩子们站在上面,练习演讲,说他们自己想说的话。家里的成人们就是听众,他们可以用鼓掌来表示他们的赞赏。有一次,因为父亲不公平地惩罚了我的二哥,我那位跛足的表哥,就站起来讲了一个有关暴君的故事。很明显,他是在很严肃地以此来批评父亲。听众们都为表哥捏了一把汗,深怕父亲因此而发脾气,会制止他继续说下去,惩罚他。但是完全出于意外,父亲却是静静地听完他的演说,夸奖了他。这个情景深深地影响了我,并且给了我很好的教育。后来到了中年,当我在工作的时候,对我的下属同事们对我的批评,无论对与错,都能静静地听完,因此他们很赞赏我。我对上级,也同样敢于直言不讳。

父は子供たちが民主的に自由に意見を言えるよう訓練をした。ある夏休みの夕暮れ、家族全員は中庭で涼んでいた。父はその時を利用してレンガを積んで台を作り、子供たちを上に立たせ演説の練習をさせた。言いたいと思う事を話しなさいと言った。大人たちが聞き手となり、拍手を以って褒めてくれた。ある時、父が次兄を不当に罰したことがあった。足の悪い従兄は台に立ち、暴君の話をした。明らかにその話を以って父を厳しく批判したのだった。聞き手は冷や冷やし、父が怒って話を止めさせて罰するのではないかと気を揉んだ。しかし全く意外な事に、父は演説を静かに聞き終えると彼を褒めたのであった。私は深く感化されて、大変素晴らしい教育となった。後になって、仕事の上で直属の部下の私への批判を、正しくても間違っていても、冷静に受け止める事ができた。このため部下は私を高く評価した。また私は上司に対しては直言して憚らなかった。

父亲还常常训练我们,在吃中餐或西餐时应该注意的一些礼节。从我五岁起,他就带我参加一些中西宴会和鸡尾酒会,让我学会怎样去做一个酒宴上的女主人。其实,我当年只是一个孩子。

父は常に子供たちを躾け、食事時は礼儀作法を注意した。私は5歳から、中国式・西洋式の宴会やカクテル・パーティに連れていかれ、酒宴での女主人のマナーを学ばされた。まだほんの子供であったのに。

父亲那时是县长。有一次他在衙门里宴请客人,让我去充当女主人,并且告诉我说:要懂得做女主人的礼节,当客人们还没有放下筷子的时候,做主人的先放下筷子就是不礼貌。刚好那一天,我们几个孩子已经研究好了要对另几个坏孩子进行一次严肃的惩罚,并且约定好大家只要一听到哨音,就要赶到后花园集合,这不是游戏,而是一次严肃的行动。所以,当我在父亲宴客的饭桌上听到这哨音带来的命令时,简直不知如何是好,是丢下筷子立刻就去?还是遵循父亲的教导,留下来陪客人?当这个哨音响到第三遍时,我才不得不向父亲扯谎,说要去小便,经父亲同意后,才丢下筷子匆匆往后花园跑。当然,那一次我已经违约了。当我跑到后花园时,那个行动早已结束了。但是,父亲关于饭桌上的礼貌与训练的教训,深深地印在了我的头脑中。

父が県知事の役にあった時、公務室に客を招き宴を設けて私に女主人役を務めさせたことがあった。客が箸を置かないうちに主人側が箸を置くのは礼を失する。女主人の礼儀として心得ておくように、と教えられらた。ちょうどその日、私たちは他所のいたずらっ子たちをやり返す相談をするために、合図の音が聞こえたら裏の庭園に集合することになっていた。これは遊びではなく真面目な行動であった。そこで、父の宴席で合図の呼子を聞いた時にどうしたら良いのか分からなかった。箸を置き立っていいのだろうか?それとも父の教えのとおり、残って客をもてなすのか?3度目の呼子が鳴った時、私はとうとう父に嘘をつかざるを得なかった。お手洗いに行きたいと言い、父の許しをもらうとすぐに箸を置き、慌てて庭園へ駆けて行った。が、約束を違えたわけで、裏庭に着いた時に事はもう終わっていた。けれど父が躾けてくれた食卓でのマナーは深く刻み込まれている。

父亲后来又转到军队里担任军法官。在任期间,他一直是禁赌、禁毒的执法者。对那些来说情的人,不仅仅不收贿,而且对行贿者们也毫不留情,一律绳之以法,把他们关到监狱里。所以,再没有人敢向他行贿。有一次,一个被上一任法官定了罪的犯人,被父亲查明实际是冤枉的,就把那人释放了。那个人在临出狱前,留下了一千元钱,放在褥子底下,并留下一张字条,说明是送给我父亲的,是为了感谢父亲弄清了他的冤情而送的谢礼。父亲是不会接受这种钱的,但又无法查明这个人的去向。不久(1931年夏天),长江发大水,武汉三镇的部分地区遭受水灾,灾民们只得爬到屋顶上去,他们都在挨饿。有一天晚上,我忽然听到很大的声音,那是父亲在捶他的书桌,他大声地喊着:“我知道了!”他就命令一个下属到他面前来,叫那个下属把这一千块钱,买成馒头,划着船,每天去送给那些被困在屋顶上的灾民们吃。父亲又把我们叫到身边,说:“孩子们,你们要永远记住,来到你们手中的钱,不属于你们自己,属于天。这是天的钱,交给你们代管。你们要为天,用在合适的地方。”父亲的这些话,永远记在了我的心上。父亲说这些话时母亲也在旁边,她就接着说:“你们现在知道天在你们的行为中的重要了。 还有一个人也十分重要,你们知道是谁吗?就是一个‘我’字。我就是每个人的自己,你做了任何事都瞒不过天和‘我’——你自己。你不能想,更不能做坏事,天晓得,你自己晓得,一丝一毫也瞒不过你自己,所以一点也不能干坏事,当你自己知道你确实坏,不可爱,不可敬的时候,你永远也不会真正快乐。”

父はその後、軍隊の軍法官となった。在任期間中、一貫して賭博・阿片を禁じて取り締まった。陳情に来た者の賄賂を受けないばかりか、差し出す者に対しても容赦なく法に照らして処罰し監獄に送ったので、袖の下を差しだす者などいなくなった。前任の法官が裁いた罪人の一人を父が調べて、冤罪を明らかにし釈放したことがあった。彼は出獄にあたって千元を布団の下に残し、付箋には私の父に贈るとあった。父が冤罪を晴らしてあげたお礼出あった。父はこのような金銭を受け取るできないとしたが彼の行方は知れなかった。しばらくして(1931年の夏)長江が氾濫し、武漢三都が水害を被った。被災者は屋根に上るしかなく、皆餓えていた。ある夜、私は突然に大きな音を聞いた。父がデスクを叩きながら叫んでいた。「そうだ!」 直ぐに父は部下を呼び、あの千元でマントウを買い、舟で屋根の上で困っている被災者に毎日届けるよう言い付けた。父はまた子供たちを傍に呼び言った。「よく覚えておきなさい。手にしたお金は自分のものではない、天に属するものだ。この天のお金を代わって管理するよう与えられたのだ。神様のために適切に遣うのだよ。」父のこの教えは心にしっかりと残っている。この時、母も傍にいて続けて言った、「あなた達の行為で神さまがどんなに大事かが分ったでしょう。そしてまだ大事な人がいるのよ、誰か分かる?それは「私」なの。私たち一人一人は、何事にせよ神さまと「私」を騙すことはできないの-----自分をね。悪事を考えることもできないし、ましてする事などできないの。神さまには分かるし、自分にも分かるのよ。ちょっとでも自分を欺くなんて出来ない、だから悪いこともできないの。自分が確かに悪いと知っていたら、自分を愛せないしプライドも持てないの。心は永遠に満たされないのよ。」
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by dangao41 | 2012-02-13 09:20 | Comments(0)