一粒珍珠的故事       刘徳偉     

 这本自传是献给我的爹爹妈妈的。从我幼年时起,就一直受着我妈妈刘郭文昭的教育。她教育我要成为一个能服务于人民与国家的人。能使生命有意义,无论我是快乐或忧愁,舒适或困难中,无论什么情况来到我的生命里,我都应该把它当成是铸成我人格和意志的锻炼。只有这一条路我才能够活出来,成为一个有用的人。她的话给了我能够充实地生活的动力。

この自伝を両親に捧げる。私は幼い時からずっと母、刘郭文昭の教えを受けて育った。母は私を人のため国家のために奉仕できる人となれと教育した。人生が意味あるものになるよう、快なる時も鬱なる時も、順調であれ困難であれ、いかなる状況もそれを人格と意志を鍛錬してくれるものしなさい。それだけが有用な人間を形成する道筋である、と。母の教えは私が充実した人生を送るためのモチベーションとなった。

 我的爹爹刘建民,是他教育了我,认识了民主是什么?他告诉我,要自己训练自己成为一个民主时代的公民,而不是封建政治下的产物。

民主とは何かを私に教えたのは父の劉建民である。自己を鍛えて民主的な公民になれ、封建的な人間にはなるなと父は言った。

                   第一章 我的儿童时代

 我是个坏姑娘,狡猾又暴躁。我生于公元1912年1月3日。那时,孙中山博士领导革命推翻了中国几千年的封建专制和对女人的压迫。我的父母都相信男女平等,他们都强烈地相信这个观念。平常一个女人的名字,多半是“花、玉、美丽”等等。但是,我一生下来,父亲就给我起了一个男人的名字:德伟。我母亲写了一首长诗,在诗中,她希望有一天我能为中国做出伟大的事业。

私はお転婆で、 狡賢く怒りっぽい子供だった。生まれたのは1912年1月3日。それは、孫中山博士の指導する革命が、中国数千年にわたる封建制度と女性への抑圧を覆えした時期である。両親は男女平等を道理とし、その思想を熱烈に尊重した。女性の名には「花」「玉」「美」などを使うのが一般であったが、父は私に徳偉と男名前をつけた、。母は長詩を作り、その中でいつの日か私が国のために偉大な事業を成すよう願う、と詠んだ。

 我记得四岁的时候,有一天早晨,在父亲办公室的窗前,一个佣人称呼我“大小姐”。父亲在房间里听到了,就大声喊着说:“叫她三少爷!”从那时起,我就是“三少爷”,打扮成男孩子。

4歳の時のある朝の事を私はまだ覚えている。仕事場の窓の前で使用人が私を「大きいお嬢さん」と呼ぶのを室内で聞いた父は、大声で言った。「三坊っちゃんと言いなさい!」その時から私は「三坊っちゃん」となり男の子の服を着た。

 因为父亲宠爱我胜过我的两个哥哥,我就变得傲慢,并且欺侮两个哥哥。我的大哥比我大五岁,我不敢打他,但是我经常做一些使他不愉快的事情,使我自己觉得比他高傲。母亲总是叫他让着我。她说:“一个女孩子只是一位客人,‘女长一十八,铜锣一响别人家’,她在这个家庭的时间是很短暂的。”有一天,大哥忍无可忍,对我无可奈何,他以天真的儿童的表情说:“妈,别的客人都很懂得礼貌和客气,为什么我这个妹妹客人总是这么不客气。”

父は私を二人の兄より可愛がったので、私は傲慢になり兄たちを馬鹿にした。長兄は5歳年上だったから打ったりはできなかったが、しょっちゅう兄を不愉快にさせる事をしては自分の方が偉いと思っていた。母はいつも兄が譲るように言っていた。「女の子はお客さんなの、大きくなったら銅鑼を鳴らしてお嫁に行くの。女の子が家にいる時間は短いのよ。」 ある日、兄は我慢も限界となり、といって私に対してなすすべもなく、あどけない表情で言った、「お母さん、他のお客さんはみんな礼儀正しいのに、どうしてお客のこの妹はこんなにも無作法なの?」

 至于我的二哥,我总是对他恶作剧,我不怕与他打架,因为他只比我大一岁。我记得有一天早晨,我发现没有大人在我们身边,我就把他推到门后面抵在墙上,一只手用门压着他,另一只手去捶打他的肩膀。我明知我的姑姑在洗澡,不能出来,却大声鬼喊:“你们来看,二哥在打我。”姑姑心知肚明,是我在欺侮我的二哥,知道我是个惹祸者,而二哥是个好孩子,就在洗澡间里大声喝叫他:“好孩子,你打回去,不要害怕。”但是二哥天性温和,从来不打我。

次兄はといえば、私はいつも悪ふざけをしてやった。兄を打つのも恐れなかった、たった一歳しか上ではなかったからだ。ある朝の事を覚えている。周りに誰も大人がいないのに気付いた私は門の後の壁に兄を突いていき、片方の手で兄を門に挟んで押さえ、もう片方の手で彼の肩をたたいた。伯母は浴室にいて出て来られないのが分かっていたから、尤もらしく叫んだ。「来て、お兄さんがぶつの。」 私が兄をいじめているのを伯母は良く分かっていた。私が厄介のもとであって、次兄は良い子だと知っていたから、浴室から大声で兄に言った 「あなたは悪くないわ、ぶち返しなさい、大丈夫だから。」 けれど次兄は温和な性質で私を叩いたことなどなかった。

 当我们都是十几岁的时候,二哥在数学方面的成绩特别优异,我在这方面就特别差,常常在期末考试中数学不及格,而必须在下学期开学前补考,如果补考不及格就要留级。所以,在寒暑假中,我不得不温习数学。

私たちが十代の頃、次兄の数学の成績は特別に優秀であった。私はといえば特別に出来なくて期末試験の数学を落とし、次学期前に追試の必要があった。もし合格しなければ留年となる。そこで冬休み・夏休みには、数学を復習しなければならなかった。

 当二哥辅导我时,他总是很耐心。有的时候,我不听他讲课,玩一些小东西。有一次,我的动作使他太生气了,他罢课!我就赶快冲到母面前说:“妈妈您看,二哥太坏了,他是在糟踏您的钱,他太懒了,他不愿意教我了,他要玩!”其实,我二哥对所有的弟弟和妹妹,都是慈如母,在辅导我们的功课与作业时,又都是严如父。我们这些弟弟妹妹,包括我这个“坏蛋”,都是终身敬爱他的。

次兄が私を教える時はいつもとても辛抱強かった。けれど時に私は兄の教えるのを聞かないで手悪戯をしていた。一度、私の態度に彼は怒ってしまい授業を止めた事があった。私はすぐに母のところに飛んでで行き言い付けた。「お母さん、お兄さんたらいけないのよ。お母さんのお金を無駄にして怠けるの。私を教えたくないの、遊びたいんだわ!」 実を言えば次兄は弟妹全てに対して慈母のようであったが、勉強を教える時は厳父のようであったのだ。私たち弟妹は、”ワル”の私も含めて、みな兄を生涯敬愛した。

 父亲希望他所有的孩子都能接受大学教育,但是,他的经济力量不够,因为他已经把大部分的钱用来培养他年轻的弟弟和妹妹们上学。我的叔父主动拿出钱来支持我大哥和二哥去读名牌大学(同济与清华),一个学医,一个学土木工程。我这位叔父曾经在袁世凯称帝时,发表过抨击文章,反对他称帝,结果遭到通缉,要捉起来杀头。是我母亲拿出了她陪嫁的八十片金叶,资助了我叔父,让他连夜逃出关外,去了东三省避难 (后来在那边成家立业了),才算躲过了死刑。所以,后来叔父资助大哥二哥去读大学,可以说是对我母亲的报答。

父は子供たち全員が大学教育を受ける事を望んだが、経済的には無理があった。父の弟妹の教育に既にかなりのお金を使ってしまっていたからだった。そこで叔父が学費を出してくれて長兄と次兄は有名大学(同済と精華)に学び、一人は医学、一人は工学を修めた。この叔父はかって袁世凱が皇帝と称した時、批判文を発表し指名手配となった。捕まれば死刑である。母は持参金であった金80枚を出して叔父を助けた、すぐにその地を離れさせた。叔父は東三省(後にその地で所帯を持って事業を起こした)に逃れて死罪をかわしたのだった。だから、叔父が長兄と次兄を援助し大学で学ばせたのは母に対する応報であった。

 我们几个弟妹们,通过了高考,也都进入了名牌大学。二哥刚刚从清华毕业,就承担了三妹(刘德傅)在湖南长沙湘雅医学院读书的全部学费。大哥从同济毕业后,也资助三弟(刘笃)读云南昆明西南联合大学。

私たち弟妹もみな資格試験に合格して名門大学に進学した。次兄は精華大学を卒業したばかりであったが、三番目の妹(劉徳傅)の長沙湘雅医学院での学費を全額負担した。長兄も同済大学を卒業後、やはり三男の弟(劉篤)が雲南昆明西南総合大学で学ぶのを援助した。

 我是靠武汉圣公会贫寒大学生助学金贷款,才读完了北平燕京大学英国文学系的。二哥当时还资助了一位我们的堂妹(刘德秀)和一位我们的堂弟(刘德馨,他是一个孤儿),分别完成了高等教育和中等教育。这是我的父母亲以他们自己的行为作为榜样,对我们这些子女们爱的教育的结果。母亲说过,无论是对自己的亲兄弟姐妹,或堂兄弟、表兄弟,都要一样地以爱相待,彼此互助互爱。

貧しい大学生向けの武漢聖公会奨学金を得て、私は北平燕京大学でイギリス文学を学ぶ事ができた。次兄は当時まだ、従妹(劉徳秀)と従弟(孤児であった劉徳声)を、其々高等教育と中等教育を終了させようと援助していた。私たちの両親が自らの行いを持って手本とし、私たちに与えた愛の教育の結果である。自分の兄弟であろうが、いとこ達であろうが、同じく愛情を持って相対し、お互いに助け合い心に掛けるように、と母は説いた。

 我五岁进了家庭的私塾。我还记得,当时我穿着一件月白色的长衫。我不要母亲送我上私塾,而是独自一人穿过了一条 黑暗的小巷,走进了学校。自己介绍了自己,非常大方自信 地走到了孔夫子的像前,三跪九叩首,又转向先生,向他叩头。叩。这个时候,私塾先生向我出题进行考试。他出“红花”,我马上对“绿叶”;他又说“高山”,我马上对“流水”;他又说“美女”,我又对“英雄”;他又出“暮鼓”,我对“晨钟”。对完以后,先生非常高兴。他问我这些是从哪里学的,我告诉他,是从我母亲讲的故事中学来的。他以为我很聪明,但是不久他就失望了。

私は5歳で家庭の塾に入った。まだ覚えているが淡い水色の長上着を着て、母の付き添いを断って一人でうす暗い路地を通り建物へ入って行った。自分の名前を言い、臆すことなく孔子像の前で三拝九拝をして、次に向きを変え、先生に対して叩頭した。その時に、先生は私に問題を出して試験とした。先生が「紅花」と言い、私すぐに下の句を「緑葉」と合わせた。「高山」に対して「流水」と、「美女」には「英雄」、[夕鼓」に「朝鐘」と対句を答えた。先生は非常に喜んでどこで学んだのかと問い、私は母がしてくれたお話の中にあった、と答えた。先生は私をたいそう賢いと思ったのだが、程なく彼は失望を味わう事になった。

 一天下午放学了,我和哥哥们吵了一架,之后,气冲冲地冲到教室里去,为了泄愤,我用剪刀,剪去了两个哥哥写字用的毛笔尖,把它们丢在地下。我的这些行为都被先生看在了眼里。先生是一位六十多岁的老人,当年,他穿着蓝色的长袍,腰系黄色的宽腰带,腰带上还挂着烟袋与他的眼镜盒。他分明看到了我这些泄愤的行为,但他却并不制止,只是一边在教室里踱来踱去,一边摇头,一边在嘴里念叨:“泼妇呀泼妇呀。泼妇之婆,害群之马。”从这个时候开始我就瞧不起他了,觉得他是一个无用的老头。我就继续剪去所有毛笔的笔尖,泄我心头的恶气。

ある午後,、授業が終わってから私は兄たちと喧嘩した。それで怒り狂って教室に行き、腹いせに二人の兄の筆の穂先を鋏で切って床にばら撒いた。私のこの行為は先生の眼の前での事だった。先生は六十過ぎのご老人で、その頃は青いチーパオに黄色の幅広帯を締めて、帯には煙管と眼鏡のケースを下げていた。彼はあきらかに私のうっぷん晴らしを見ていたのに、止めようともしないで教室を行ったり来たりして、頭を振りながら呟いていた。「じゃじゃ馬だじゃじゃ馬だ。手に負えない子だ、皆に害を及ぼす。」 この時から私は先生を役にも立たない年寄りだと見くびるようになった。そして全部の筆の毛先を切り取り続け、憂さを晴らしていた。

 我最初读的书叫《三字经》,它是用三个字一句写成的书。它是每一个启蒙的学生都必须读的,包括天文、地理、人伦、哲学、历史等等内容。每天早晨先生教几句,我就要立即背得出;下午要学写大楷、小楷,晚上要背诵古诗。

最初に読んだのは「三字経」というもので、三字で一句なるように書かれた本だった。小学生の必読書で、内容に天文、地理、人論、哲学、歴史などを含んでいた。毎朝、先生に数句を習い、すぐに暗唱し、午後には大文字小文字で習字を練習し、夜は古詩を諳んじた。

 在那些日子里,学生们都要用一种单纯的音调去背诵课文,所以教室里充满了单纯得像唱歌一般的声音。我也跟着他们背诵,但是我背诵的不是课文,而是随心所欲的遐想。我二哥和我坐在同一张方桌的同一个犄角的相邻的座位上。我在桌子底下,抓住他的一根手指,一边用一块竹片来回地锯他的手指,一边口里用背诵课文的音调唱着:“杀猪!杀猪!”不料,他一会儿就大哭起来,原来他的手指已被割破,流出了鲜血。

その頃は、生徒は一種平坦な音調で教科書を諳んじなければならなかった。だから教室内は単純な歌のような声で満ちていた。私もみなと一緒に暗唱したが、それは教科書の文ではなく、気ままな思いつきのものだった。次兄と私は同じ机の隅っこに並んで座っていた。私は机の下で兄の指を掴み竹べらを当てて鋸のように引きながら、教科書の暗唱のリズムに合わせて「ブタを殺せ、ブタを殺せ!」と唱えていた。私の予期せぬことに、兄は大きな声で泣きだした。兄の指は切れて血が出ていたのだった。

我看见了血,就知道大祸临头了。我心想,千计万计,走为上计。我想躲到父亲衙门旁一座荒芜的园子那里去。我站起来,向着教室的边门跑去。但是我没有想到,我叔叔(我父亲的三弟)的书桌正在那个边门的旁边。他一贯站在我哥哥们的一边,最恨我。他从后面一把就抓住我的衣服,提了起来,我的手脚在空中乱舞,就像渔夫抓了只螃蟹。他把我从教室里拉出来,扔到我母亲卧房的床上,把我押到我母亲面前,说:“嫂子,你揍她一顿!”我趴在床上回头一看,母亲正在寻找她平时体罚孩子用的一块木板。我当时还是想“逃为上计”,就溜下床来,向门口冲去,又一次被把着门的叔叔捉住。他抓住我的辫子,又把我扔在了床上。我挨了母亲的一次狠打,她打我的屁股。我受到这次惩罚,使全家人从心里感到痛快,除了父亲。

血を見たとたん大変な事になったと思った。何としても逃げるが上策。父の仕事部屋近くの荒れた庭に隠れよう。立ち上がり教室の通用口へ駆けだした。けれど叔父(父の3番目の弟)の机がまさにその脇にあった事には考えが及ばなかった。叔父はいつも兄たちの味方であって私を咎めていた。叔父は後ろから私をつかまえて教室から引きずり出し、母の部屋の寝台に放り投げ、母の前に私を突き出して言った。「姉さん、お仕置きしてください!」 伏したまま顔をあげると、母はふだん子供を叩くときに使う木の板を手にするところだった。その時の私はまだ「逃げるが上策」と思っていたのと寝台からすべり下りて戸口に突進したが、またもや叔父に捕まった。私はお下げを掴まれて再び寝台に放り出され、母にお尻を強くひっぱたかれた。この私への懲罰には家じゅうの人が溜飲を下げた。父以外は、であるが。

母亲开始看出进行道德教育的紧迫性,她用讲故事的方法教育我们这些孩子。她讲的故事都是关于历史上伟大的人物的,他们的伟大是基于从幼年时开始的对人格的培养。每天晚上,诗词课的练习与写日记是饭后的课程。先生认为,诗词与齐家治国无关,没有经典的沉重,是轻松的,它的美感与音乐感是与黄昏的那种美感融在一起的。所以,他把诗词课的练习放在晚饭后,一直上到晚上8点。

母は早急な道徳教育が必要と見てとり、物語を使う方法でそれを始めた。みな歴史上の偉大な人物の物語であり、彼らの偉大さは幼年期に開始された全人教育に基づいていたのだった。毎晩、詩句の練習と日記が食後の勉強であった。先生は、詩句は家や国を治めるに無関係で経典ほどの重要さはないく軽いものと考えていた。そしてその美と音楽性は黄昏時の美しさと調和する、と。そこで先生は詩句の勉強を夕食後から8時までとしたのだった。

每当我想到母亲讲故事,两个熟悉的能带给我心灵一种甜蜜而温馨的情景,立即浮现在我的记忆中:一个是夏日的晚上,一个是冬天的夜晚。

母のしてくれた物語を想いだすたびに、ふたつ情景が即座に心に浮かび私の心を甘やかに暖かくする。一つは夏の晩のこと、一つは冬の晩のこと。

夏日的晚上,一个大宅门的天井出现在我的幻觉之中。这个天井是用白色的石板铺起来的,走廊围在它的周围。天井中间有一个绿色的大缸,缸体布满美丽的雕塑,缸内有红色的金鱼在绿色的水草中游动。很多很美丽的花盆安排在缸的周围,它们又美又香,而且各种颜色都有。晚风轻轻地把香气吹送到在天井中乘凉的人们的身上。走廊的尽头是母亲喜欢的地方,它通向亲戚们住的另一处房屋与天井。那里的穿堂风非常凉快。她时常坐在一张竹制的躺椅上,让风吹散她乌黑发亮的头发。在月光下,她显得非常美。每当风停下来的时候,她就用一把很大的蒲扇,去扇自己的头发。我们小孩子就喜欢围着她,求她讲故事。

夏の晩はというと、屋敷の中庭が目にに浮かぶ。中庭は白い石で出来ていて廊下がその周りを囲んでいた。真ん中に緑色の大きな甕が置かれ、甕には美しい彫刻が施され、中は赤い金魚が緑の水草の中を泳いでいる。たくさんの綺麗な花の植木鉢が甕の周りに置かれていた。美しく香り良く色とりどりであった。夜風はそっとその芳香を中庭で涼んでいる私たちに送る。廊下の突きあたりは母の好きな場所で、親戚の住まいと中庭に通じていた。其処に抜ける風はたいそう爽やかであった。母は竹の寝椅子に座り、風が母の黒く艶々した髪をなびかせる。月明かりのした、とても綺麗だった。風がないときは大きなシュロの扇で髪をあおいだ。私たちは嬉々として母を囲みお話をせがんだ。

冬天夜晚的情景完全不同。那是在室内。房门口挂着很厚的棉帘,帘子上的刺绣辉煌而灿烂。在房屋的中间,有一个很大的铜盆放在一个几乎贴着地面的雕刻精美的木架上面,里面烧着一盆通红的炭火。离那盆火不远的地方,就是我们围着母亲听她讲故事的地方。她的声调,面部的表情,词汇的选择,留给我很深的印象。讲故事是她用来教育我们和塑造我们性格的一种方法。当时,我们只感到好玩有趣,一点也没有意识到被她的言词和那种意境所感动。

冬の夜の情景は全く違っている。それは部屋の中。戸には厚いカーテンが掛けられ、カーテンは綺羅やかな刺繍が施してある。部屋の中心には大きな銅鉢は、表面に精巧な彫刻を施した殆ど地面と変わらない低い板に置かれ、中には明々と熾った炭火。その傍で、私たちは母にお話をしてもらったのだった。母の声、表情、言葉は深く心に残っている。母は物語を用いて私たちの性格を形成したのであった。当時、私たちはただ楽しんでいただけであって、物語やその境地に影響を受けていたとは全く感じていなかった。

母亲讲过的孔融让梨的故事,使我深深地受到了感动。有一年,我们住在一个小县城里,一位亲戚送了母亲一些干贝,这东西在当时是很稀少贵重的。我母亲就把它装在一个篮子里,挂在很高的地方。我们都很想吃,大哥就去偷,用一张桌子,加上一把椅子,爬上去,一把一把地从篮子里抓出来,往下面扔,我和二哥就站在下边用衣服来接着。我们几个大吃特吃,觉得特别好吃。这样偷吃了几次以后,终于被母亲发现,篮子里的干贝被人偷吃了,几乎没有多少了。她就审问大哥,因为在几个孩子中,他是最大的。母亲正准备打大哥的时候,二哥突然跑了上去,抱住了大哥,哭着对母亲说:“是我偷吃了,不是他,打我。”这时候,我也冲上去抱着二哥说:“妈,是我,不是他们,打我!”母亲终于被我们几个人感动了,放下了板子,谁也不打了。

母が語ってくれた中の孔融が梨を譲った話は私を深く感動させた。ある年のこと、私たちは小さな町に住んでいたのだが、親戚が、当時は大変貴重な物だった干し貝を送ってくれた。母はそれを籠に入れて高いところに吊るした。子供土地は食べたくて、長兄がこっそり取りにいった。テーブルに椅子を乗せて上り、一つかみづつ取っては下に投げた。私と次兄は下に立って広げた服に受けた。私たちは存分に食べ、飛びきり美味しいと思った。この盗み食いは何回かすると、とうとう母に見つかった。籠の干し貝は食べられて殆ど残っていなかったのだ。母はすぐさま長兄を問いただした。子供の内で一番大きかったからだ。母がまさに彼を叩こうとしたその時、次兄は急いで走り寄り、長兄を庇って泣きながら母に言った「僕が取ったのです、兄さんではありません。僕を叩いてください。」 この時には私も次兄を庇いながら言った、「お母さん、私なの。兄さんたちではありません。私をぶってください。」 母は心を動かされ仕置き板を置き、誰も打つことはなかった。

还有个故事是关于我的外祖父的。他与我们曾经一起生活了好几年,是一位很慈祥的佛教徒。他年轻的时候,有一次,在乡间的一个夜晚,他与佣人一起从外面回家,佣人手提一盏西瓜形的纸灯笼。当他们来到自家大门口时,外祖父看到两个佃农,从他家中扛出两桶菜油。这时候,外祖父立刻吩咐佣人把灯吹灭,躲在一边,让那两个偷东西的佃农从身边走过去。事后佣人问他:“少爷,你为什么不连人带赃一起把他们抓起来?”他就说:“年关接近,他们一定是缺少食油,而我家里食油又够多的了。没有人会喜欢偷东西,他们俩一定是家庭负担过重。他们都是勤劳老实的农民,这个错在我!今天晚上我取得了一个教训。以后我知道了,在年关前,我应该多关怀佃农们的生活情况。我们吹灭了灯笼,好像没有发生任何事情一样,是为了不使他们尴尬,才能使我们之间的关系自然平稳地继续下去。

中には父方の祖父の物語もあった。祖父とは何年も一緒に暮らした事があったが、慈愛深い仏教徒だった。若いころ郷にいた時のある夜、祖父使用人と共に外出から帰るとき、使用人は楕円形の提灯を提げていた。家の門まで来た時、祖父は二人の小作人が家から二桶の菜種油を担ぎ出てくるのを見た。祖父はすぐに火を消させ身を隠し、盗人の小作人をやり過ごした。使用人が 「若旦那さま、どうして盗っ人を品物もろともを押さえないんですか?」と聞くと、こう答えたという。「もうじき年も暮れる、油がないに違いない。家はといえばたくさんあるではないか。誰だって盗みなんてしたくないだろう、困っているのだよ。二人とも良く働く農夫だ。私がいけなかったんだ。今晩の事は良い教訓だ、師走には小作達の暮し向きに注意すべきだと分かったよ。提灯の火を消したから、何も起こらなかったも同様だ。彼らに気まり悪い思いはさせなかった、あの二人とこれからも穏やかにやっていけると云うものだ。

母亲在讲完这个故事以后,对我们总结说:“我们要从这里学习为别人着想,不要只考虑自己的需要和自己的地位。我们都是人,我们有同样的物质需求,不同的仅仅是,他们穷,我们富。在上天的眼睛里,我们并不比他们高尚。”

母は話し終わると「このお話から人を思いやる事を学べたでしょう、自分の欲や身分ばかり考えてはいけないの。私たちはみんな人間なのよ、必要な物は同じ、ただの違いは彼らは貧しくて私たちは富んでいると云うだけ。神様がご覧になったら、私たちの方が立派だなんて事はないの。」 と締め括った。

母亲讲的故事中间,也有好些是西方的故事,其中有一个故事讲的就是美国第一任总统华盛顿。当他还是一个小孩子的时候,就能很诚实地承认自家花园里的樱桃树是他砍的,避免了佣人和农奴们受到冤枉。从那以后,哥哥和我,深深地记住了母亲的话:一个真正的人,要有智慧认识自己的错,要有勇气承担自己的错,要有毅力来改正自己的错。

続きの原文http://mjlsh.usc.cuhk.edu.hk/Book.aspx?cid=2&tid=2
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by dangao41 | 2012-02-13 09:24 | Comments(0)