少年凯歌 第1章 天国 4

①出门向南穿过小巷,离我家不远的地方就是护国寺。说是寺,有寺之名,无寺之实。所以我很久都以为护国寺不过是过去流传下来的地名。后来走得多了才突然明白,这个今天居住着上千人口,五方杂处的大院落其实就是原来的寺。

門を出て南へ横町を抜けると、家からさほど遠くない所が護国寺だった。地名に寺がついているだけで、実際の寺はなかった。だから私はずっと護国寺とは昔の名が伝わっていたのだと思っていた。その後度々通っているうちに急に気がついた。今では千人以上が住む、この雑居住宅こそがなんと寺であったのだ。

②寺的东西围墙仍然完好,只是斑驳了,很高,约有半华里长。庙的两座后门面北,之间的距离约二十米。单是这两个长度已经可以看出当年庙宇的规模。不知从什么时候起,这两座后门打开,庙内成了行走之地,僧舍内也住了人,时间久了,寺庙就变了样。南面的护国寺街上,山门已不存,代替的是几座店铺,其中一个是花店,冬日也有半街余香。

寺の囲い壁は完全に残っていたが、色は斑だった。丈高く、長さは250メートルほど。廟の2基の後門は北向きで、その間隔は20メートルほど。その幅だけでも当時の廟の規模が分かるだろう。いつの頃からかは知らないが、その2基の後門は開けられて、内部を行き来できるようになっていた。宿坊にも人が住みつき、長い間に廟は変わっていった。南側の護国寺の通りに山門はすでになく、代わって店舗がいくつかできていた。そのうちの一軒は花屋で、冬の日でさえ辺りに香りを漂わせていた。

③我常走的是庙后的西门。要抬起头来才会看到伸出的门檐上,有几乎被风尘湮灭的绿色琉璃瓦,夕照时在隔年的衰草后面闪闪地亮。后门与殿堂相连,实际是个过厅;里面比外边明显的低,可见当年香客踩踏之繁。门内有低低的石阶,甚宽。细细一想,应该是泥塑金妆的天王站立的地方,如今却空着。盛夏,须发皆白的老者在石阶上对坐下棋,老太太们路过歇脚。黄昏时突然走入,会看到台阶上留在夕阳里的糕饼点心,嘴馋的孩子也决不敢碰的。有人说,这是老人们留给庙里的“灵物”黄鼠狼的,因为庙已残破,香火不再,恐怕它无处觅食。也有人说,是“黄大仙”本身因循旧例,偷来食物救济孤苦的。两者都是美丽的故事,而庙确实残破了。

私はいつも後方の西門を通った。顔を上げれば張り出した門櫓が見えた。埃にまみれて色あせた緑の瑠璃瓦は、夕陽が射すと去年の衰草の後できらめいた。後門と殿堂はつながっていて、実際には広間である。中心は周囲と比べて明らかに低い、往時の参拝者が多かったことが見て取れる。中にはとても低い石段があって広々としている。よくよく見れば金色に塗った泥の天子が立つべき場所は、空っぽだ。夏の盛りには、髭も髪も白いお年寄りが石段に対座して将棋を指し、老いた婦人たちがひと休みしている。夕方にふっと入ってみれば、台の上で夕陽を浴びている点心が目にはいるだろう。食いしん坊の子供でさえ決して触ろうとしない。老人たちが廟の「精霊」であるイタチに供えるのだ、と言った人がいた。なぜなら廟は荒れてしまい、もはやロウソクも灯らない、食べ物もないだろうから。又、「黄大仙」とは古くからの因習で、貧者が取って食べられる援助用の食物であるとも言われている。二つ共に美しい話である。そして廟は確かに荒れ果てていた。

④当年香客如云的焚香散花之路已经崎岖不平,遇雨便满地泥泞。廊下僧房中住满了笑闹喧腾的俗众,门窗依旧,没有了往日的肃穆。小作坊的机器声代替了晨钟暮鼓;而应是“大雄宝殿”的所在,变成了一座电影院。门外两座石龟,驮着巨大的石碑,翘首问天,碑上盛记功德的碑文已经苍黑,湮然不可复识了。惟一留下的真迹,是西北角的“地藏殿”,殿宇宛然,偶像俱在。殿前有一榆树,因接近道路,有人经过便摸一把,摸得久了,树腰竟成了一片光滑的白色。树后遍种蓖麻,叶子肥大深绿,苍翠时阳光也照不透。出于好奇,我们常常抓住门上的铜锁,站在露出的门坎上窥探。殿内昏暗潮湿,霉味扑鼻,地藏王菩萨满身灰尘,慧目低垂。神案上除了牌位、香炉之外,还有一大堆凝了的红色烛泪,触目惊心。“文革”开始之后,这里首当其冲地成了红卫兵采取革命行动的“战场”之一。殿门打开,阳光涌入,地藏王菩萨被推下莲花宝座,在尘埃中摔得粉碎。

当時、参拝者の香煙が漂った花屋の道は今は凸凹で雨が降れば一面の泥濘となる。廊下も宿坊も世俗の喧騒で賑やかで、たたずまいは昔のままだが往年の厳粛さはない。町工場の器械の音が朝の鐘、夕の太鼓に代わった。そして「大雄宝殿」であるべき場所には映画館があった。門の二匹の石亀は大きな石碑を背に載せて首を伸ばし天を仰いでいた。功徳を讃えて彫り込まれた碑文は褪せて磨滅し読めない。唯一現存する遺跡は西北角の「地蔵殿」、建物も地蔵も残っていた。その前に一本の楡があった。路に近いもので通る人が触るのであろう、その部分が擦られてつやつやと白くなっていた。楡の後にはトウゴマが植えられていた。葉は大きく深緑で、青々と茂ると陽を遮るほどだった。好奇心で私たちはよく門の銅の錠前を掴み、できた敷居のから覗き見したものだった。中は暗く湿っぽくて黴臭かった。地蔵菩薩は埃にまみれて智慧の眼を下に向けていた。祭壇には御位牌と香炉の他に、積まれたまま固まってしまった赤いロウソクの一山がおかれ、目にすると落ち着かない気持ちがした。「文革」が始まるとここは、紅衛兵が革命的行動を講ずる「戦場」の一つとして真っ先に攻撃さfれた。堂門は開けられ太陽に晒され、地蔵菩薩は蓮座から引き下ろされて埃の中で砕かれた。 

⑤宗教的脆弱,是中国的一大问题。四十年来对宗教,害处听得多,好处听得少,是宣传的一大特色。一来因其与“无神论”的主义相悖,有碍“思想统一”,二来恐其“与党争民”,所以不能容忍。其实,气度恢宏的统治者,深谋远虑,总会意识到宗教维系精神、稳定社会的好处,而加以保护。但在一九四九年以后,曾经遍布禅林的北京,僧众流散,寺庙荒凉,对于我们这些革命后出生的少年来说,宗教几乎等于旧世界的代名词了。

宗教的なもろさは、中国の大きな問題点である。40年来宗教に対して幣害ばかりを言いたてその長所を言わなかった。これが喧伝の特徴である。一つには「無神論」的な主義との矛盾があり、「思想統一」の妨げとなる。二つには「党との民争奪」の恐れがあり、容認は不可能であった。実をいえば、度量の大きい統治者なら深謀遠慮を持って、宗教の精神維持的な役割と穏健社会の長所を図り、保護したであったろう。しかし1949年以降、かつては寺院が至る所にあった北京の僧侶は散り散りとなり寺院は荒れ果てた。私たちのような革命後に生まれた少年にとって、宗教とは時代遅れの代名詞に等しかった。

⑥在这个决不完美的世界上,宗教是个去处。它使做了好事的人有地方去欣喜,做了坏事的人有地方去忏悔;失望的得了希望,绝望的至少得了安慰。信仰是文明的开始。相信,需要天真和勇气——重要的是相信本身,倒不是相信的一定要是什么。只要人尚能相信,这世界就还有救。杀死了天真和勇气,剩下的就是一群暴民了。信仰实在是人性的围墙。而在“文革”开始的最初日子里,几乎所有的暴力无不首先发生于信仰的领地:孔庙、佛寺、天主教或基督教堂。

この決して完璧とは言えない世界で、宗教はひとつの拠り所である。 善を行う人に喜びの場を与え、悪を行う人に懺悔の場を与える。失望している人に希望を、絶望している人は慰めを与える。信仰は文化への第一っ歩である。信じること、疑うことなく勇気を持って----大事なのは信心それ自体であり、信じる対象は何でもよい。人が信心さえあればこの世界はまだ救えるのだ。邪気なき心と勇気を殺してしまったら、残るのは暴徒の群れである。信仰は実際に個人的な事である。「文革」の初期の頃、殆ど全ての暴力は真っ先に信仰の地である孔子廟、仏寺、カトリック教会やキリスト教会で起こった。

⑦一九六五年,庙会已经被禁止,接着,民间的丧葬嫁娶仪式也被禁止。接着,北京南城享有百年盛名,在中国人欢庆新年时几乎无人不去的文化集市——厂甸街,宣告关闭。接着,就轮到了北京城墙。

1965年、廟会が禁止され、続いて民間の冠婚葬祭の儀礼も禁止された。その結果、100年の名声のある北京南城は、新年を祝って参拝する中国人がほぼ皆無の市となり----廠の外街は閉鎖を言い渡された。その次は北京城壁の番だった。

⑧一九四九年初,清末大儒梁启超之子——建筑师梁思成教授,住在其执教的清华大学。当时内战大局已定,解放军攻城刻在日内。一夜,有客来访,自称共产党城市工作部干部,特携带北京市区地图,要梁先生指明何处不可用兵,何处不可开炮。共产党于争夺天下之际,尚能虑及古都文物的保护,据说,是梁思成日后感戴投报的原因。不久,北京未被战火而和平易手,使八百年古迹得以保留,是中国的大幸运。所以可以想象梁先生听到毁城设想时的心情。他曾力谏政府首脑放弃这一计划;他的夫人甚至誓言:城破之日,自取其命。但是,以“城墙妨碍首都建设”为名,计划终于变成现实。在现代化机械的频频击打之下,木石俱下,烟尘大起,顿成废墟。被分段拆除的城墙,砖石今已不知去向,少量的可以发现于民间的鸡窝兔舍。传说:在明初重修城墙时,工匠曾用熬熟的米汤和泥浇铸,以求坚固,可见毁城工程的艰难浩大。多在夜间操作的轰轰机声未能惊醒北京人,而城市从大梦中醒来时已成裸体。世代居住北京的人民中,竟无一人与古墙共存亡者,实在辜负了这城。有识之士,慑于一九五七年“反右”,一九五九年“反右倾”,一九六二年的“大抓阶级斗争”而大多匍伏在地。与此同时,这座始建于元代,经明成祖朱棣重修,此后代代维护,长达数十华里的八百年古城墙轰然倒塌了。一个旧梦随风雨而逝,永远不再。一九八六年,我站在纽约现代艺术博物馆内,注视西方人于一八九三年拍摄的旧京城墙照片,回想它延伸阔大的雄姿,不胜唏嘘。

1949年初頭、清朝末の大学者、梁啓超の子-----建築家梁思成教授は職場である精華大学に住んでいた。当時、内戦の大局はすでに決まり、解放軍は日中に北京に乗り込んできた。ある夜、訪れる人あって自分は共産党の都市工作隊幹部だと名乗った。北京の地図を持参し、まず梁さんに、どこに兵が必要か、どこに大砲が必要かはっきり示してもらいたいと言った。共産党は権力を掌握できるか否かの瀬戸際にさえ、古都の文化財を保護しようと配慮ができた。これに梁思成は恩を感じて協力したといわれている。ほどなく、北京は戦火に遭うことなく平和を手にし、800年の旧跡は保たれた。中国の大幸運であった。だから梁氏が城を破壊する計画を聞いた時の心情を想像できるだろう。彼は政府首脳に計画を中止するよう必死で諌めた。梁夫人はとうとう、城を壊す日に自害します、と誓言までした。しかし、「城壁は首都建設の障碍」の名目で、計画はとうとう現実のものとなった。現代的な機械に叩かれ続けて、木石もろとも、もうもうと埃を立て、たちまちに廃墟となった。何回かに分けて壊した城壁とレンガは何処へいったのだろう。そのほんの一部は民間のニワトリやウサギの小屋に見ることができるのだが。明朝の始め、城壁を修理したとき、工匠は堅さを追求して煮詰めた重湯と泥を鋳型に流したと伝えられている。その城を壊す過程は困難を極めたであろう。夜間に多くなされた工事のドカンドカンという機械の音でも、北京人はまだ気付かずに眠っていた。街が夢から覚めた時は既に丸裸となっていた。代々北京に住む住民のうち、命をかけてでも古壁を守ろうとした者は一人もいなかった。実際、城への裏切りであう。しかし1957年の「反右」、1959年の「反右傾」、1962年の「大階級闘争」と見識者は脅かされ大多数が身を潜めていた。ちょうどこの時期に、元代に始まり、明の成祖朱棣の改修を経て、これまで永永と保ってきた、その長さ数キロに及ぶ800年の歴史ある古城壁は轟音と共に崩れ落ちたのであった。過ぎ去ったものは、もはや戻ってこない。1986年、私はニューヨークの現代美術館で、西洋人が1893年に撮影した古い京城の写真を、じっと見つめていた。伸びやかで堂々としたその雄姿を思い出すと、涙を押さえる事ができなかった。

⑨至此,精神和物质的旧墙均已归于消灭。从不设防的国度中醒来的人们,看到空旷的地平线上一轮巨大的红太阳,在短暂的幕间休息之后,天国的钟声又响了。

これで、精神的・物質的共に古壁は消滅した。反対の声を上げられなかった中国の目覚めた者たちは、遮るもののない地平線の上に巨大な赤い太陽を見た。短い幕間の後、天からの鐘音も鳴り響いた。 (第1章終わり)
[PR]
Commented by dangao41 at 2011-12-25 11:04
3 后门与殿堂相连,实际是个过厅
4盛记功德的碑文 盛记?
5“与党争民”,
6倒不是相信的一定要是什么
8竟无一人与古墙共存亡者
9天国的钟声又响了  又が?
Commented by hanyu07 at 2012-01-04 13:04 x
もといさん、こんにちは。
こんなに和訳は進んでいたのですね。わたしは、年末と年始に畳み掛けるようにいろいろなことがあって、一週間ほど、中国語と離れてしまいました。これは中国語をはじめてから無かったのかも。たった一週間というより、一週間もというかで、さらに忘却曲線が進んでしまいました。
カイコーにしても、立て直さないと・・
と、またもやメールのように使ってしまいました!
Commented by dangao41 at 2012-01-04 14:03
hanyuさんの宣言に乗せられて?突き進みましたが完全に身の丈を超えてましたね。意味を取るのがやっとで訳はとても粗いです。けれど加圧トレーニング効果ですかしら、もうプリント1、2枚の和訳なら楽にできそうな気が・・・・内容も興味深かったし、カイコーをご提案くださった事、感謝です。今年もよろしくお願いいたします。
by dangao41 | 2011-12-25 11:50 | ??歌 | Comments(3)