少年凯歌  第1章天国1

①一九六五年,我十三岁了。我开始在人前饶舌,又在饶舌者面前假装沉默。人到十三岁,自以为对这个世界已相当重要,而世界才刚刚准备原谅你的幼稚——原谅在过去,不是这个理由。因为你确实已经十三岁了。十三岁时发生的事情永远也忘不了。

1965年、私は13歳だった。よく喋るようになったが、饒舌な人の前では寡黙を装った。人は13歳ともなれば一端の気になるが、世間はやっとその稚気を大目に見てくれるようになる年頃だ-----しかしあの頃、容認とはそのような理由からではなかった。なぜならあなたは確かに13歳だったのだから。13歳の時に起こった出来事を人は決して忘れることはない。

②特别留下印象的事,有两件。一件在夏天,另一件也在夏天。第一件:我在夏季的末尾考上了北京市最著名的男子中学。我跟在邮递员的自行车后面飞跑,他手上举着一只白色的信封。我穿过锯木厂的电锯声,一个公共厕所和一大丛美人蕉,在家门口的石影壁前追上了他。我一直感激他,不仅我相信正是他把运气带给了我,而且为了他把快乐带给别人时的快乐。从走进教室的第一天算起,我只在这座学校正式呆了十个月。这个,是他和我都没有想到的。

特に印象に残っている事が二つある。一つは夏の出来事で、もう一つもやはり夏の出来事であった。その一。夏休みの終わりに北京で最も有名な男子中学の試験に合格した。私は郵便配達の自転車を追って走っていた、彼の手に一通の白い封筒があった。私は製材所の電気鋸のうなり音の中を通り抜け、公衆トイレとカンナの大きな茂みも過ぎて、家の門内の目隠し石壁の前で彼に追いついた。私はずっと感謝している。彼が幸運を運んでくれたばかりでなく、人に楽しい時間も運んでくれたからである。しかし教室に第一歩を踏みいれた日から数えて、10ヶ月しかその学校に在籍しなかったとは、彼も私も思いもしないことであった。

③第二件事,发生在小巷转弯处的破屋门前。我走近的时候,一群孩子正挤在那儿,朝里望。里头很暗,要不就是外边太明亮,我好一阵没有看清那是个老人。虽然是夏天,他身上的棉衣也不该破碎得像一只鹅绒枕头,当然没有那样的洁白。一只麻袋中露出一些肮脏的废纸,摊在地上;一只用铁丝弯成的筢子,木柄雪亮,仰面躺着;一只同样雪亮的碗和一只生了锈的锅,郑重地放在木床板上,像是两件文物;“嗡嗡”响着的,是一只苍蝇。在我受到的教育中,一些我并不真正知道的什么,仿佛近了一点;我仿佛知道的另外一些什么,却远了一点。让人在饶舌和沉默之间左右不是。老人抬起头,眼睛晶亮晶亮,刀子似的一闪,孩子们就一哄而散。许多年以后,我才从朋友的书中知道了,只有就要饿死的人,才有那样晶亮的眼睛。我又经过那里的时候,破屋已经拆掉了,我想,老人自然是死了。

その二。入り組んだ路地のあばら家の前。私が近づいて行くと、一群の子供たちが押し合い圧し合い覗き込んでいた。中は暗かった、でなければ外が明るすぎたのであろうが、私には暫くその老人が見えなかった。夏だというのに老人はもう着るには耐えられぬほど襤褸の綿入れを身に付けて、まるで羽毛枕のようであった。もちろん枕のように白くはなかったが。汚い紙くずがはみだした麻袋が一つ地面に広げられ、鉄線を曲げて作った熊手は木柄も黒く光ってひっくり返っていた。同様に黒光りした茶碗一つと錆が浮いた鍋一つも、まるで文化財のようにそっと床に置かれていた。ブンブン音を立てているのは一匹の蠅。私の受けてきた教育では全く知り得なかったものに近づいたように思えた。私は別の世界を覗いたような気がした。遠くからではあったにしろ。人を饒舌にも寡黙にもするそれには困惑させられた。老人が頭を起こした。きらきらと刃のように輝いた目に子ども達はわっと飛び去った。ずっと後に私は友人の本でやっと知ったのだが、餓死寸前の人間だけがあのように輝く瞳を持つという。次にその場所を通りかかった時には、廃屋はすでに壊されていた。老人はあのまま死んだのだ、と思った。

④其实,无论在哪儿,这样的景象都不足为怪,现在也是。我当时很吃惊。可我没有想到我应该而且可能为那老人做点什么,是使我日后更吃惊的事。我只是一哄而散的孩子中间的一个。我只是一名看客。类似的事情我以后看过不少,许多淡忘了。不忘的是那双眼睛,晶亮地长在我的背上,晶亮地看着世界。

その実、何処でもあのような光景は珍しくもなかった、現在においてさえもだ。驚愕はした。しかし、その老人のために何かすべきか或いは出来るか、とは頭に浮ばなかった。後に私はその事に驚いていた。私はどっと散り去った子供たちの一人に過ぎなかったのだ。私は観衆の一人。似たような情景をその後も少なからず見てきたが、多くは忘れてしまった。忘れていないのはあの二つの眼、キラキラとずっと私の背に張り付いて、キラキラと世の中を見詰めている。

⑤一九六五年对中国来说,是重要的一年。她刚刚迈出一道门坎,同时准备迈进另一道门坎,抬着脚。这中间,一片阳光。光亮有时不过是黑暗安装的一道门,推开门就又走了进去。

1965年は中国にとって重要な年であった。ちょうど始めのドアを通って、次のドアを開けようとしているところ、そこに一筋の陽光があった。ただ光は暗黒に設定された道筋にも射す事があるものだ。中国は戸を押し開けて歩き出した。

⑥这一年夏天,国营市场上蕃茄的市价是人民币一分钱一斤。若是暴雨过后,价格就会变成一毛钱一堆。运走这一堆,要使四五个孩子很费些气力。花八元钱,就可以在机关或学校的食堂一个月里吃得很好;每人月平均消费三十元的是富裕的家庭;手表还不是人人都有;时髦的标志是拥有一辆上海生产的“永久一13型”自行车;使我们这些醉心体育运动的男孩子更加醉心的是一双同样由上海生产的“回力牌”白色球鞋,索价十元。我是在这一年夏天才头一次得到这样一双球鞋的,是母亲祝贺我考上四中的礼物。等到它渐渐旧了,我就用白粉把它重新涂白,因为我知道,一斤面粉市价一角八分的当时,不是每个孩子都可以得到这样一双鞋的。中国的农民们从国家手中收到蕃茄的一分钱和面粉的一角八分钱时(当然不这么简单),成熟一只蕃茄也意味着至少四个月的劳作。因此大概可以算出农民们的收入情况。但是,这不是最坏的情况。

その年の夏、国営市場のトマトの値段は500グラム人民幣で1分であった。嵐などの後では、山積み一盛りが1毛となった。これは子供が4,5人でフウフウと運ぶくらいの量である。8元出せば職場や学校の食堂で1ヵ月は充分に食べられた時代だ。毎月の平均出費が30元の裕福な家庭でさえ腕時計は皆が持っている訳ではなかった。最先端は上海製「永久13型」の自転車だった。運動好きな少年たちがもっと夢中になったのはやはり上海製「回力印」の白いサッカー靴で、売り手側が付けた値は10元だった。この年に私は初めて、母から四中合格祝いとして買ってもらった。段々に古くなると白い粉を塗った。小麦粉が500グラム8分した当時、誰でもが買って貰える物ではないと分かっていたからだ。中国の農民は国にトマトは1分、小麦粉は1角8分で買い上げてもらっていた(もちろんそれ程簡単ではないが)、熟したトマトは4ヶ月の労働を意味する。ここから農民の収入の大よそが分かるだろう。しかし、これが最も悪い状況というのではなかった。

⑦不仅因为年龄,也因为其他,我不是一九六O——一九六二年大饥荒的合格回忆者。在饥饿突然露面时(其实它一直跟在背后),城市居民中的重体力劳动者的月粮食定量降低到十四公斤;而孩子们,只有六到九公斤。我记得我曾在市场附近寻找菜根和菜叶,切碎了用红薯面包成菜团子,双手捧着吃,以防它散开。在学校大群的孩子中间,有些渴望在课间休息时,得到五粒黄豆,很香地炒熟了,握在掌心,握出汗来,才咸咸地一粒粒吃掉,腿上却依然浮肿着。我们对童话像对鞭炮一样又爱又怕,因为童话中总是提到糖果。偶然可以吃到面条时,哪怕在同一家庭中也须用小秤将面粉一份份事先秤过,再为每个人单独制作。在大型食品店里被轻易捉住的贼是一具腹部滚圆的尸体。北京各机关派出卡车和枪手,追赶内蒙古草原上的黄羊,把被饥饿打死的黄羊肉血淋淋地分给许多家庭。根据我的经验,这种肉食并不好吃,但在当时,很好吃,非常好吃。我们到底生活在首都,到底偶尔还能吃到黄羊肉。我的一位在美国居住了十二年的朋友回忆当年的情景:她当时躺在河南省的一个村庄里,两眼望着悬在房梁上的一只篮子,里面的几个干馍是一家最后的食物。她后来偶然活了,在父母把她接到北京之后。此后许久,只要听到炊具的碰撞声,她就开始感动地啼哭。就在这个河南省,农民们先是吃净了树皮、草根,甚至一种泥土,然后就在道路、田野和村庄中成群地死去。官方文件中对这件事很少提及,提及时使用的词汇是“非正常死亡”。在不多的几年里,死于此种非正常的人数在两千万到三千万之间。一个相当于澳洲人口总和的人群消失了,但我们却什么也不知道。

私の年齢のせいばかりでなく、その他の理由もあって、私は1960-1962年の大飢饉をよくは覚えていない。飢饉が突如として現れた時(実はずっと背後に付いていたのだが)、都市の住民のうち、重労働者の毎月の食糧配給は14キロに減らせれた。そして子供への配給は僅か6-9キロになった。市場近くで根っこや葉っぱの屑野菜を探して、さつま芋を粉にし野菜を包んで団子にした事があった。こぼさないように両手で捧げ持って食べたものだ。学校の生徒の中には一部、休み時間を待ちに待つ者もいた。貰えた5粒の大豆を、香ばしく煎ってあるのに食べるのを惜しんで握りしめ、汗で塩気がつくほども経ってから、やっと一粒一粒食べる。そんな家の子たちでさえ脚には浮腫みが出ていた。子供たちにとって童話は爆竹のようなものだった。好きだけれど怖い。なぜなら童話の中には決まってキャンデーが出てくるのだから。 たまに饂飩を食べることができたが、たとえ家族でもまず秤で一人分ずつ粉を量って、それから一人ずつ打ったものであった。大きな食料品店では易々と泥棒を捉えてみれば、腹の膨らんだ仏、といった目に遭った。北京の各機関では射撃手を乗せたトラックを出し、内蒙古の草原でヤギ狩りをした。ヤギは飢餓によって撲殺され、すぐさま多くの家庭に配給された。私の経験から言って、こういった肉は決して旨いものではないのだが、当時は美味しいと思った。とても美味しかった。しかし都会に住んでいたからこそ、たまたまヤギの肉が食べられたのだ。12年間アメリカに住んだ友達の当時の想い出はこうである。彼女は河南省の村にいた、その両の目で見上げるのは梁に吊るされた籠、中の乾いた数個のマントウがその家の最後の食料だった。彼女は偶々生き延びて両親のいる北京へ戻れたが、その後長いこと、鍋釜の音を聞くと想いが余って泣けたそうだ。その河南省では農民は先ず木の皮や草の根を食べ尽くし、粘土すら食べ、とうとう道や畑や村落でもバタバタと死んでいったという。政府の文書にはこれ関する記述がほとんどなく、言及する時は「変死」との語句を使用する。たかだか数年間で、この変死者数は2千万人から3千万人となった。オーストラリアの総人口と等しい人間が消え失せたのだ、しかし何も私たちは知らなかった。

⑧为什么?没有说,谁该负责?也没有说。只知道:我们遇到了自然灾害。还有,苏联人的背信弃义。

  自斯大林死后就开始了的中、苏意识形态之战,恶化了国家关系。一九五九年,苏联开始撤退专家,停止了一切援建项目。中国则开始以农产品偿还朝鲜战争借款。据说,这就是造成饥荒的主要原因。事实是,饥荒的部分根源是人为的结果。而同苏联的冲突,仿佛一个举着雨伞在阳光中行走的雪人一样,偶然遇到一场暴雨,不仅可以避开晴日带伞的猜疑,而且可以为自身的融化找到根据。这是一场及时雨。一九五八年全国性的“大跃进”才是六十年代初期大饥荒的起因。

何故だ?と誰も言わない、、誰の責任だ?とも誰も言わない。ただ分かっているのは、自然災害に会ったという事。その上、ソ連の裏切りもあった。 

スターリンが死ぬとすぐ中ソのイデオロギー闘争が始まり、両国の関係は悪化した。1959年のソ連はエキスパートを引き上げて一切の援助プロジェクトを停止した。中国は朝鮮戦争時の借款を農産物を以って返済し始めた。これが飢饉が起こった主な原因だそうだ。しかし本当は、飢饉の原因の一部は人災であった。ソ連と衝突は、晴れの日に傘をさして歩く雪だるまが偶然に暴風雨に遭って、晴天に傘をさす愚かさを隠せたばかりか、自身を融かした要因の転嫁をも可能にしたのであった。グッド・タイミング。1958年の全国的な「大躍進」こそが60年代初期の大飢饉の起因である。

⑨但是,人民却甚少怨言。原因中分量很小的是他们不了解内情,更多的是他们对这个制度还有信心。因为饥荒是农业国家的常规事件,仅在中国近代史上,灾变已经不知发生过多少次了。不但如此,他们还欣赏毛泽东同苏联人的斗争。维护西方马克思主义纯洁性的重担,由数千年维护“华夏正统”的民族来担当,表面上不通,实际上合乎逻辑,都基于同样的道德偏执。古远的帝国旧梦和尚未古远的百年外患所造成的悲哀和仇恨作用,一时间确实产生了毛泽东所说的“精神变物质”的强大力量。他们相信在闭关锁国的条件下,可以依靠精神的力量,“在一张白纸上画下最新最美的图画”。受到伤害的民族自卑感,以自尊的方式被激励起来了。

しかし、人民からの怨みの声はごく僅かだった。内情を理解していなかったというより、人々のこの政府に対する信頼があったということだろう。凶作は農業国では珍しくない、中国の近代史だけでも、天変地異がどれだけ発生したことか。そればかりか、まだ彼らは毛沢東とソ連の論争を素晴らしいことだと思っていたし、西洋のマルクス主義の純粋さを守ろうとしていた。数千年続く「華南の正統」を以ってそれを担おうと。表面上は筋違いに見えるが、実際のロジックは適っていた。基幹は同じ、道徳的偏見である。遥か昔の帝国だった歴史と、未だ遥か昔とはなっていない百年の諸国からの侵略で形成された悲哀と怨恨が作用して、一時は確かに毛沢東が唱えた「精神の物質化」的なエネルギーが生み出された。人民は排外鎖国の状況の元で精神力を頼みに、「白紙に最新最善の図面を描いた」。傷つけられた民族のコンプレックスをバネに自負心を取り戻そうと奮い立ったのであった。
 
⑩自一九五九年起,由一名在战争中被日军打断了一条胳膊的将军指挥,从中国各地汇集来的人群,在东北烈风劲吹的雪原上,建设起一座巨大的油田。他们住在土坯垒成的泥屋中,吃着有限的粗糙食物,依靠军事共产主义的组织方式,人海式的劳动投入,理想与纪律,在刻意不宣的岁月中默默奋斗。一位名叫王进喜的工人,曾在严冬季节跳进深可及胸的泥浆池中用身体搅拌开钻所必须的泥浆,并使他的钻井队保持年钻井世界纪录多年,而被称为“铁人”。他在北国寒风中高唱:“石油工人一声吼,地球也要抖三抖!”满载原油的列车终于从原来无名现名大庆的地方开出,结束了中国进口原油的历史,消息传出,民心大振。与此同时,地处中国华北与西北交界的群山腹地之中,一名叫做陈永贵的农民,依靠同样的组织方式和精神因素,在周围的山地上用铁器时代沿用至今的锄头,建造起比他们脸上的皱纹整齐得多的梯田,其规模使人联想起长城的修建,并在水土保持极其困难的半高原上当年获得谷物丰收。炊烟升起,宣布一个名为大寨的村社的兴起,并为中国北方多山诸省的农业施了洗礼。陈永贵这个名字,对于常年处于半温饱状态的中国农民来说,无疑号召力强大。一九六二年,因“麦克马洪线”而纷争不休的中、印边界爆发战事,来自四川省的军队越过西藏高原,一举击溃了印度陆军。同年,解放军又在东南沿海歼灭了蒋介石派遣的武装分队,并发出誓言:“我们一定要解放台湾!”一九六四年,苏共中央第一书记赫鲁晓夫先生下台的同时,中国在西北地区引爆了第一个核装置。大体与人民共和国一同生长的少年们第一次看到了沿街散发的号外和胜过节日的狂热人群。所有这些成功,都是通过人海式的群众运动实现的;“放手发动群众,大搞群众运动”这类口号更多地出现在宣传中。在林彪元帅推动下,群众运动的胜利被归功于伟大领袖。毛泽东开始被称为“当代最伟大的马克思主义者”,他的思想不但是“顶峰”,而且五百年才出现一次。如同中国的古语:“五百年必有王者兴。”中国的经济也确实开始稳定,人们至今对一九六四——一九六五年之间物品的丰富和低廉的物价记忆犹新。一九六五年纪录国庆实况的影片中,在毛泽东出现之前,有一个由广场摇到天安门城墙的长镜头,在容纳了一百万人的空间中,竟可以清晰地听到城楼上八面红旗飘舞的声音。接着,《东方红》就在礼炮声中响彻了广场。入夜,手擎红旗的人群在静默中踏出大军行进般的步伐,通过原西方国家使馆所在地——西交民巷,涌向天安门广场,不久,天空中升起了焰火礼花。

1959年、日本との戦争で片腕を失った将軍の指揮のもと、中国各地から集まった人々が東北の烈風吹きすさぶ雪原に巨大な油田を建設した。彼らはレンガを積み上げ泥で固めた家屋に住み、不十分で粗末な食事を取りながら、軍事共産主義に依る組織方式の人海作戦労働力として投入されたのだ。理想と規律をもって、意図的に知らされない歳月を黙々と奮闘した。王進喜という労働者は、かって厳冬の中、胸まで汚泥に浸かり手で泥を掘り、その年、彼の掘削隊が成した油田の深さは長いあいだ世界記録として残った。因って「鉄人」と称されている。彼は北の寒風のなか高らかに歌い上げた、「石油掘りが一吼えすれば、世界は三度震える」。 石油を満載した列車がかつては無名であった大慶から、遂に出発したのだ。石油輸入の歴史は終わった、ニュースは伝わり人々の心は高揚した。この同じ年、中国華北と西北に境を接する山脈の奥地で、陳永貴という名の農民が、同様の組織方式と精神的要素で、周囲の山を鉄器時代から今に至るまで使われている鋤を以って、彼らの顔の皺より整った棚田を作りあげた。その規模は万里の長城を思わせ、水の確保も極めて困難な半高原で、実りも豊かに穀物を収穫した。この煮炊きの煙上る一農村、大寨村の名が全国にとどろき、中国北方山岳地帯の多くの省がその影響を受けた。陳永貴の名に、いつも半ば腹を空かせて過ごす農民たちが強力に引きつけられたのは疑う余地もない。1962年、「マクマハン・ライン」を回る紛争が続く中、インド境界近くでの衝突が勃発した。四川省から軍隊がチベット高原を超えて攻め入り、インド軍を一挙に壊滅させた。同年、解放軍は東南沿岸でも蒋介石の武装部隊をせん滅し、「必ずや台湾を解放する!」の誓言を発した。1964年、ソ連中央第一書記の赫鲁晓氏が失脚すると同時に、中国は西北地区で第一の爆弾装置を点火させた。およそ人民共和国と時を同じく成長してきた少年たちは、道で配られる号外と、戦勝を祝う熱狂的な人々を始めて見たのであった。これらの成功はすべて人海作戦で群衆を動員して実現させたものであった。「大衆自らが立ちあがれ、大衆の行動に依ること大」のスローガンが更に多く喧伝された。林彪元帥の推進の元、大衆運動の勝利は偉大なリーダーの手柄となった。毛沢東は「当代最も偉大なマルクス主義者」と称されるようになり、彼の思想は「最高峰」であるばかりか500年に一度やっと出現するものとされた。まるで中国古典の「500年の内には必ずや王の勃興あり」であった。経済も確実に安定し始め、人々の1964-65年にかけての物の豊富さと低価格はいまだ記憶に新しい。1965年の国慶祭の記録映画の中に、毛沢東の出演前、広場から天安門城壁にかけての広角映像がある。100万人を収容できる広場の城門上、八面紅旗がはためく音を明瞭に聞く事ができる。続いて「東方紅」が祝砲のなか響き渡る。夜になり、紅旗を掲げた群衆は静かに足を踏み出し大軍の行進の如くの歩調で、以前の西洋公使館所在地---西交民街を通り、続々と天安門広場に向かった。間もなく空には祝いの花火が打ち上げられた。

⑪这是盛世景象。

  用毛泽东本人的话来说:“中国人民从来没有像今天这样精神振奋,意气风发,斗志昂扬。”一九六五年,一首早就代替了五十年代流行的“好一朵茉莉花”的革命歌曲,直接引用了毛泽东的原话:“我们走在大路上,意气风发斗志昂扬,毛主席领导革命的队伍,披荆斩棘奔向前方。”

繁栄時代の光景である。
 
毛沢東本人の言葉を用いれば、「中国の国民に今迄このような精神発奮、意気発揚、闘志高揚を見たことはない。」1965年、50年代に流行した「美しい茉莉花」に早くも取って代わった革命歌曲は、毛沢東の言葉をそのままに歌った。「我らは進む、意気高く闘志を燃やし、毛主席率いる革命部隊、荊を纏い棘を斬ち前進する」
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Commented by dangao41 at 2012-01-05 11:46
2而且为了他把快乐带给别人时的快乐
3 让人在饶舌和沉默之间左右不是。*左右不是→どちらもよくない
4 晶亮地长在我的背上
6 成熟一只蕃茄
11 炊烟升起,宣布一个名为大寨的村社的兴起、 *炊烟升起→農村の情景 、  西交民巷→地名
13 精神振奋,意气风发,斗志昂扬
jīng shén zhèn fèn ,yì qì fēng fā ,dòu zhì áng yáng
荊を披ひらき 棘を斬つ。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/geming10.htm




Commented by dangao41 at 2012-01-09 11:37
里头很暗,要不就是外边太明亮,我好一阵没有看清那是个老人。
中は暗くて、外が明るかったからでもあろうが、私には暫くその老人が見えなかった
: 让人在饶舌和沉默之间左右不是。
人を饒舌にも寡黙にもさせる、どちらも良くはない事だ。
: 她刚刚迈出一道门坎,同时准备迈进另一道门坎,抬着脚
这中间,一片阳光。光亮有时不过是黑暗安装的一道门,推开门就又走了进去。
: 我记得我曾在市场附近寻找菜根和菜叶,切碎了用红薯面包成菜团子
市場近くで芋と野菜を見つけて、さつま芋を粉にし野菜を包んで団子にした事があった
: 得到五粒黄豆,很香地炒熟了,握在掌心,握出汗来,才咸咸地一粒粒吃掉,腿上却依然浮肿着
貰えた5粒の大豆を、香ばしく煎ってあるが、握りしめて汗で豆に塩気が付いたのを一粒一粒食べる。脚には浮腫みが出ていた
Commented by dangao41 at 2012-01-09 11:37
: 把被饥饿打死的黄羊肉血淋淋地分给许多家庭。
腹を空かせた黄羊は撲殺され、すぐさま多くの家庭に配給された
: 我们到底生活在首都,到底偶尔还能吃到黄羊肉。
そもそも都会に住んでいるからには、黄羊の肉が食べられるのは稀な事であったのだ。12年間アメリカに住んだ友達
: 官方文件中对这件事很少提及,提及时使用的词汇是“非正常死亡”。
言及する時は「非常死亡」との語句を使用する。
by dangao41 | 2011-12-25 12:02 | ??歌 | Comments(3)